咲江にはじまり、重盛もまた三隅に心を奪われ、感情移入してしまいます。そういった点で考えても、三隅の持つ空っぽの器に取り込まれていると考えることもできます。
そこから、私たちに問いかけるものは一体なに?
最初は真実など二の次で、裁判に勝つことだけを考えていた重盛が三隅に取り込まれ、真実を知ったにも関わらず、三隅を救う事ができず、死刑という形で裁いてしまいます。
法律を信じ、司法制度に何も疑いを持たずに過ごしてきた重盛が、ラストシーンを通して現代の司法制度について考えさせられる問題提起が含まれているのではないでしょうか?
何度も出てきた、『十字架』が表わす意味とは
殺害された社長・山中光が殺害され燃やされた痕、カナリアのお墓、雪合戦時に倒れこんだ三隅と咲江の体制、咲江が入ったパン屋「丸十ベーカリー」、ラストシーンで重盛が見上げた空に浮かぶ電線と重盛が立つ十字路といくつも十字架が作中に出てきました。
もしかしたら、他にも出ていたのかもしれません。
重盛が三隅に『十字架』について尋ねるシーンでは、「人を裁こうとしたのか?」という問いかけを否定し、「自分は裁かれる側だ」という発言を残しています。
しかし、心の底では三隅は自分自身、殺されるべき人間と考えている相手に対しては、自分が裁きを与えなければならないと感じていたのかもしれません。
そして同時に、どんな形であれ殺人を犯した自分は裁かれるべきだという考えも持っていたのではないでしょうか。
ラストシーンで映る二つの十字架に関しては、三隅を救うことができずに、司法を通して殺人を犯してしまった重盛の持つ罪の意識を表していたのではないでしょうか。
【三度目の殺人】を踏まえて、現代の司法制度を考える!
事実として作中に存在することは、『河川敷で社長が殺害された後に燃やされた』ということだけで、他の事実は、それぞれの人間が証言する部分のみで成立しています。
三隅の目撃証言もなければ、自身が殺害を供述したことで様々な細かい調査もなく、殺人犯としてストーリーは進んでいきます。
人を信じるのか、事実を信じるのかという点で、司法制度の中にある合理性に矛盾が生じています。
殺人を犯して、人の命を奪っていても、強盗殺人か怨恨かで罪の重さが変わってしまうことや、状況証拠がない中ではひとりひとりの証言ですべてが決まってしまいます。
この作品を通して、現代の司法制度の内情がどういったものか、真実を語られることがないという点を見せることで是枝監督の「法」に対するメッセージを感じることができます。
難しい作品でありながら、それぞれの視聴者にそれぞれの解釈をさせるという作品でもあるのでしょう。