しかしこのメッセージが思わず父の芯を食ってしまったのではないでしょうか。
だからこそ浮気に走る自分を罪だと恥だと思ったと推測されます。
世界の終末だったから
2つ目には世界の終末だったから、もう浮気しても意味がないという無常感に襲われたのでしょう。
乗客達もこのような極限状態に陥るとかえって冷静になり、本音をぶちまけ始めます。
だからこそ、もうここでレイフォードも本音をぶちまけてしまいたかったのでしょう。
結果として怒られることになったとしても、肩の荷が下りてスッキリした筈です。
世界の終末を前にして、いわゆる諦めの気持ちにも似たものに辿り着いたのかもしれません。
それと同時に浮気に走る気持ちも何の意味も持たなくなったのではないでしょうか。
信じ切れない人だから
そして3つ目にレイフォードもクローイも“信じ切れない人たち”だったからではないでしょうか。
本作において死んだ人たちは皆キリスト教を強く信仰した人たちであり、残った人はそうではありません。
レイフォードもクローイも実は信じ切れない現実主義者で根っこの部分が冷めているのでしょう。
だからこそその冷静な判断力でこれはもう謝罪した方が良いという判断に至ったのです。
根っこが冷めているということは、逆にいうと心に隙間がないということになります。
宗教を信じない・信じ切れないことがかえって幸いした形ではないでしょうか。
信じる者が馬鹿を見る
さて、こうして本作を見ていくと「信じる者が馬鹿を見る」という教訓が裏に読み取れます。
娘クローイがまだまだ世界の終末はこれからだと口にしつつ、決してキリスト教を肯定などしません。
世界の終末においては信じる者が救われるとありますが、果たして本当にそうでしょうか?
もし信じる者が救われるのならば具体的な天国の様子を映してもおかしくないからです。
ところが本作は死後の母や弟らキリスト教信者がどうなったかなど最後まで示されません。
死後のことなど死んだ人にしか分からず、本当に天国が良いところかは分からないからです。
それをレイフォードやクローイ達生き残った者が一笑に付すというのが本作の構図なのです。
だからプロパガンダ映画のようでいて実際は真逆で、宗教信仰の馬鹿馬鹿しさを描いています。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
本作はキリスト教信者か否かでだいぶ評価の分かれる作品かとは思います。
しかし、安易なプロパガンダ映画ではないことは作品の結末が伝えてくれているのです。
表向きパニック映画の定石をなぞっているようで、実はそれをシニカルに笑っています。
また世界の滅亡レベルの災害を人間に防げるわけがないという残酷な現実もあるのです。
その人間に防げるわけがない災害をどう受け止めればいいのか?
そのことを受け手に作品を通じて考えさせる為の物語だったのではないでしょうか。