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モリこと熊谷守一と妻の秀子のある一日を描いた本作の監督は『横道世之介』の沖田修一です。
観終わった後、ほのぼのと心が温かくなるような『昭和の香り』が流れる素敵な映画でしたね。
熊谷夫婦が望んでいるわけではないのになぜか二人の家には人が集まります。
なぜ人々はこの家に集まるのでしょうか。そして守一はなぜ外に出ないのでしょう。
日課の碁を打ちながら語った『何度でも生きたい』の意味や宇宙人が誘った真意に迫っていきます。
モリの家に人が集まる理由とは
熊谷守一と秀子の家には毎日人が訪ねてきます。
用事があって来る人もいれば日課のようにやってくる人もいて主婦の秀子は対応に追われていましたね。
何度も表札を盗まれる二人の家の門はまるで俗世間との境界線のようです。
その境界線をいとも簡単に超えて訪れる人々はなぜこの家に来たがるのでしょうか。
来たくなるこの家の魅力とは
画商の荒木やその仲間は日参しているようで玄関ではなく庭先から居間に上がり込んでいます。
姪の美恵ちゃんでさえ忘れていた『かりんとうが無い』ことにも気づくほどの慣れには笑えましたね。
彼らは特に商売の話をするでもなくのんびりと家族のように寛いでいます。
彼らはモリに会いに来ているわけではなく『この家』に来ているのです。
この家の持つ独特の雰囲気が好きで毎日『仕事のように』来るのでしょう。
この家の魅力の源は秀子だと感じます。
モリのためだけに日々を暮らす秀子の包容力と許容力、そしてそれらが詰まったこの家はまるで小宇宙のようです。
彼らはこの『居心地の良い小宇宙』に魅せられ、いつの間にか失ってしまった日本の原風景にその身を委ねたいのでしょう。
家の間取りも魅力のひとつ
玄関はガスの点検員が覗いた場所だと思われますが、その扉は開け放たれ風も虫も暑さもすべてを受け入れています。
二間続きの居間は庭に向かって開放部が続き、モリが長年歩き続けて作った迷路のような小道に繋がっていました。
外から部屋の内部は見えずまるで来客を拒むかのような木々が生い茂りますが、一旦踏み込むと暖かく包み込まれます。
入り難いけど一度入ってしまうと何度でも来たくなるこの家は熊谷夫婦そのものです。
設定はモリが94歳の昭和49年の7月ですから、作品の中に多く登場するドリフターズが転換期を迎えた年でもあります。
当時は勝手口の外に七輪を持ち出して干物を焼くことも珍しくなく、まだ一般的でなかった電子レンジのタイマーはダイヤル式でした。
熊谷家にも電子レンジがありましたがなぜか居間にあります。きっと台所では電源がとれなかったのでしょう。
そんな時代背景をさらっと描いている辺りも素敵な演出ですね。
モリはなぜ外に出ないのか
モリは30年この庭の外には出ていないと言われていますが、秀子にからかわれて出かけようとするシーンがありました。
小学生の女の子と目が合って逃げかえるモリの慌てぶりについ微笑んでしまった人も多いのではないでしょうか。
庭はモリの全てだった
来客の多い家ですからモリは人に会うのが怖いというわけではありません。