どんなに大量に物があったとして、死ぬ時には何も持っていくことは出来ないのです。

思いという形のないものしか人は持っていくことなど出来ず肉体も朽ち果てていきます。

正に物質的に豊かだけど心が貧しい現代社会のアンチテーゼといえる表現です。

根源的欲求

欲望について

2つ目に35年も同じ日々を繰り返す中で人はどんどん表に見せない根源的欲求を見せるようになります。

1980年の家族の話では年老いて痴呆になったにも関わらずロベルトとサンドラが肉体関係を繰り返すのです。

また2017年の話でも自販機で買ったペットボトルを排泄物を入れるための容器として使っています。

もう周りに見られているとか公然わいせつ罪になるとかいう恥と罪の意識は一切ありません。

極限状態に追い込まれると人間は汚らわしいとされる根源的欲求が露呈されてくるのです。

これは恐らく理性と言葉を奪われてしまえば人間も所詮は野蛮な動物に過ぎないという皮肉でしょう。

大事なことが伝わらない

そして3つ目に死ぬ間際になって初めてロベルトやマルコ刑事は自分が何者であったかを思い出します。

これは死の直前に人間がそれまでの人生を走馬灯のようにして思い出すことの比喩でしょう。

またここで2人がそれぞれ遺される人達に伝えるメッセージが全く通じない所もポイントです。

臨死体験などでもしない限り人間は本当に大切なことや重要なことが分からないといわれます。

そう、老人が経験の上でする忠告など渦中の現在を生きる若者に通じることはありません。

そうした価値観のズレもまた35年間苦楽を共にしながら重ならない部分として描かれています。

生は死によって支えられている

「生」と「死」の取り扱い説明書

物語後半ではこの無限ループの世界が現実世界で本当の自分が起こしたことの代償だと説明されます。

これは即ち現実世界=生ループ世界=死という光と闇の表現になっているのではないでしょうか。

即ち現実世界にある人々の生はその裏にある先人の死によって支えられていることを意味します。

だからこそどの時間軸も意図的に殺される人と最後に死ぬ老人という2度の「死」が描かれるのです。

確かに無限ループの仕組みやタイミングの発生などの細かいルールは説明されません。

しかし、そこで描かれる出来事はいずれも確かに「人生」の縮図を描いたものになっているのです。

扱いの難しいSF的な要素を非常に効果的に物語へ組み込み、凄くシンプルな所へ落とし込んでみせました。

反復とズレ

監督 小津安二郎〔増補決定版〕 (ちくま学芸文庫)

本作が示す最終的な人生のテーマは実にストレートな「反復とズレ」にあるのです。

1980年と2017年の70年分のループをラストで1本に繋げながら、その中で着実に変化が起こります。

しかしカメラはそこで誰の視点に寄ることもなく、あくまで中立・俯瞰の視点を保ったのです。

これは小津映画も持っていた構造をメキシコ映画が改めて映画のあり方として示した形でしょう。

実は非常に映画的なエッセンスでありながら、それ故に再現するのがとても難しい命題です。

だからこそ難解かつ哲学的とも思われるSFガジェットの数々を用いないといけませんでした。

1歩間違えれば確実に破綻してしまうテーマを絶妙なバランスと構成で表現した傑作です。