それは正に誰からも愛されず妻も子供にも見捨てられた行天とどこか重なります。
愛されないが故にストーキングを始めたことを行天は正確に見抜いていました。
恐るべき観察力ですが、それだけ人間関係における孤独を味わってきたからこそだといえます。
希望を見出している
2つ目に完全に離婚した自分と違って山下にはどこか希望を見出していたのではないでしょうか。
山下は戸惑い足掻きながらもどこかで母とやり直すことを諦めてはいませんでした。
諦めていないからこそストーキングや刺殺未遂という形でエネルギーを発散するのでしょう。
そこが正に完全に妻と子を捨てて1人孤独な闇を抱えて生きる行天との違いでした。
だからこそ山下には可能性がある限り諦めて欲しくなかったことが窺えます。
自分を大切に出来ない
そして3つ目に医者からも指摘されていますが、行天は自分を大切に出来ない人だからです。
ぶっきらぼうさを装っていても、彼は他者に対して裏切りや不貞を働いたことはありません。
その変わり自分の痛みには鈍く、とことんまで自分を痛めつけてしまう人なのです。
それが人に愛されながら自由に生きてきた多田とは大きく異なっている所にもなっています。
だからこそ多田には行天が、そして行天には多田が必要なのではないでしょうか。
行天という人間が内面に抱えている空虚をしっかり捉えて描いているのです。
下町独特の雑味
本作は単なる下町に生きる人達の人情ドラマを描いただけに終わっていません。
下町独特の雑味や猥雑さ・汚さみたいなものもしっかり画面に描かれています。
これは原作者の三浦しをんが生まれ育った場所だからこそ出る説得力でしょう。
切ないながらもどこか昔懐かしい感じがするのはこの下町っぽい猥雑な雰囲気にあるのです。
都市開発が進み最新のテクノロジーが目立つ一方で日本からは下町の強みが消えつつあります。
本作はそれが思い込みでしかなく、まだまだあることを画面で思い知らせてくれました。
痛みや切なさを抱えながらも下町を愛おしく思い生きていく2人はとても魅力的な人達です。
枯れていく人生にも味がある
いかがでしたでしょうか?
本作の最終的なメッセージは「枯れていく人生にも味がある」ということです。
妻も子も失った多田と行天は世間的には「負け組」と表される人たちなのでしょう。
そしてまた便利屋稼業を通しても1度失ったものを取り戻すことは出来ないのです。
しかし、そんな枯れていく人生にも意味はあり、また前に動くことは出来ます。
失われた物に執着するのではなく、前に向かって新しい幸せや愛を探せば良いのです。
多田と行天というかつての同級生が大人になって相棒となったのには深い意味があります。
本作は2人がもう1度人生のスタートラインに戻るまでの過程を描いた名作です。