1番の理由は終盤で明らかとなりますが、学生デモへ参加するためでした。
物語終盤、フェルミンはクレオの前に銃を持って現われたのです。
そう、フェミニンにとって最初からクレオなどその場しのぎの関係でした。
時期が来たら彼女を損切りするつもりだったのではないでしょうか。
おそらく妊娠させたことももしかすると予定外だったのかもしれません。
最初に喜んだ時声も顔も心底祝福していないのが演技・演出でも示されています。
クレオを舐めていた
2つ目に、フェルミンがクレオを舐めていたことが劇中の言動・行動から窺えます。
武術を習っていると語りながら、実はそれ自体が嘘で本当は学生デモに参加していました。
ちょっとした恋人気分を味わい、性欲を満たせれば良かったのではないでしょうか。
だから、本気で深入りして関係性を築いていくつもりはなかったのです。
70年代でありながら、アントニオと並んで男のダメな部分が凄くよく詰め込まれています。
監督から見た男性像
そして3つ目に、キュアロン監督の幼少期の男性像がこういうイメージだからでしょう。
すなわち仕事に出稼ぎに行き、家庭を守る役割を一方的に女性に押しつけてばかりです。
70年代の男性像が「かっこいい男」として語られることが多かったことを考えれば衝撃でしょう。
男はあくまでも仕事や理想が第1にあって、守るべき家庭や子供は2の次になってしまいます。
出稼ぎに行くといえば格好いいですが、それは家庭を蔑ろにすることと表裏一体です。
しかも支払いすらきちんとしないのですから、相当にいい加減な生き物として描かれています。
その辺りを特に強調する意味合いでフェルミンという人物が据えられているのではないでしょうか。
真に強いのは女性
本作から見えてくる監督の家族像は恐らく「真に強いのは女性」ということです。
男性でこの視点を非常に強く持ち得ている監督は中々いらっしゃらないでしょう。
男達はどんどん稼ぎに出る一方でついつい家族など守るべきものが後回しになります。
その間本当に守るべき大切な子供や家族を守っているのは母親や家政婦なのです。
力はなくとも、精神的な意味において男性より遥かに強いのは間違いありません。
男尊女卑の強かった70年代においても、実は女性の方が強かったことが窺えます。
そう見ると、男女の価値観は一見変わったようで変わっていないのではないでしょうか。
生みの親より育ての親
いかがでしたでしょうか?
本作における家族像は突き詰めると「生みの親より育ての親」ということになります。
はっきりいって、メッセージとしてはそこまで特別でも何でもありません。
しかし、それを他の親戚などではなく家政婦という赤の他人に表現させています。
そして、監督自身の個人的な手紙という所が逆に大ヒットを生み出したのです。
それだけ監督にとっては両親以上に家政婦の方が親らしかったのではないでしょうか。