アントニア一家はラザロが再会した時、既に盗人になる程落ちぶれていたのです。
貴族がそうであるように、アントニア一家も無残な没落を味わってしまいます。
それもその筈、人から奪い続けていると今度は自分が奪われる側になるからです。
奪い続けた人には何のリターンもなく、周りからどんどん人が離れていくでしょう。
没落
2つ目に、アントニア一家もまた伯爵家がそうであるように、どこかで没落するでしょう。
伯爵家だって村人から散々奪い続けたから、ある拍子にボロが出て落ちぶれたのです。
しかし、こういうタイプに限って「憎まれっ子世にはばかる」で長生きしたりします。
本作に出てくる登場人物はラザロ以外根本的に根性だけはやたらと凄いのです。
下卑た目で人を見て蔑み、時には嫉妬心でどんどん人から奪っていきます。
ですから、村人共々落ちぶれていく未来がラストの結末からも窺えるでしょう。
次の寄生先へ
そして3つ目に、落ちぶれたとしてもまた次の寄生先となる貴族を探すのではないでしょうか。
アントニア一家は動物にたとえるなら下卑たハイエナであり、常に目を凝らしています。
ハイエナは美味しそうな人や動物がやって来ると、容赦なく寄生して奪っていくのです。
ですから、村を出て伯爵家に代わる次の貴族を探して取り入ろうとするのではないでしょうか。
しかし、悪銭身につかずであり、ズルをして手に入れたお金などすぐさまなくなってしまいます。
彼らが長生き出来たとしても、決して輝かしい未来を歩むことはないでしょう。
超富裕層が表に姿を現さない理由
本作のラザロの末路を見ていくと、超富裕層が表に姿を現さない理由が見えてきます。
特に村社会のような所に姿を現すと、村人たちやアントニア一家が奪おうとするからです。
超富裕層はそれを熟知しているからこそ、名前を決して出さずに社会貢献や寄付をしています。
ラザロはそういう意味で、運と人に恵まれなかっただけで資質は十分に超富裕層なのです。
だから、村人たちから搾取していた伯爵家は真のお金持ちではなく、成金の似非富裕層となります。
現代にも通じる根本的な社会の成り立ちやお金持ちの仕組みを逆説的に描いた寓話なのです。
真の幸福は目に見えない
本作が最終的に発しているメッセージは「真の幸福は目に見えない」ではないでしょうか。
伯爵家は確かに「見てくれ」は美しそうで豪華絢爛ですが、幸福度は非常に低いのです。
逆に、ラザロはお金持ちではないですが、内面の幸福度は誰よりも高く真に美しい人でした。
そう、真に凄い人や美しいものは自ら見られることを望まず、ひっそりと佇んでいます。
すなわち、この映画は受け手の我々に作品を通してどのような人間かを問うているのです。
ラザロのように人に与える側の人間か、それとも村人たちや伯爵家のように人から奪う側の人間か。
現代社会の構造を名作劇場の作劇で料理した寓話として、映画史に残り続ける傑作でしょう。