しかしここに、人間の傲慢さと現代医療の問題点が隠れているのです。
安楽死は医療における大きな課題で、回復の見込みのない患者を安楽死させるべきかは世界的な問題です。
そして安楽死を与えることは人間の傲慢ではないのか、とも議論されています。
もう楽になってもいいはず
引用:十二人の死にたい子どもたち/配給会社:ワーナー・ブラザース映画
ユキは劇中で上記のようにいいますが、これはユキ自身が楽になりたいという思いからではないでしょうか。
楽になる=死という安易な考えが、現代に幅を利かせていることは否定できない事実です。
現代社会における様々な問題を浮き彫りにし、「命」とは何かを考えさせられます。
ちなみに映画では名前を明かされなかったゼロ番ですが、原作ではユウキと呼ばれていました。
彼らが導き出した答え
最後に十二人がした「決断」は大きなメッセージ性を持っています。
生きる決断
本作品のなかで最も生きたいと願う人物シンジロウは下記の提案をします。
計画を中止するべきか?
引用:十二人の死にたい子どもたち/配給会社:ワーナー・ブラザース映画
この問いに対する答えこそ、子供達の未来となるのです。
生きる決断をした彼らにとって、廃病院での出来事はどんな意味を持つのでしょう。
どこにでもある決断
劇中では「死」を望むことがドラマチックに描かれていました。
しかし、本気でないにしても死んだ方がいいという思いを抱く人は、少なくありません。
「死」を考えそこから這い上がることは、日常的にあり得ることなのです。
彼らの生きるという決断は、多くの人が経験したことのある真実のストーリーなのかもしれません。
彼らの結論の先にあるもの
生きる決断を下した彼らは、その先に何を見つけたのでしょう。
劇中でシンジロウは皆に「生きること」を望みますが、これはいわば遺言ともいえるものです。
そして、皆は彼の言葉に従うのです。
原作を見てみると、ノブオは下記のことをシンジロウに語りかけます。
僕はシンジロウ君の友達で、実は人殺しで自主したいんです。っていう自己紹介になるよ
引用:十二人の死にたい子どもたち/発行元:文藝春秋
生きるという決断を下したことで、死にたい理由が笑い話になったのです。
彼らの決断はつまり、大きな壁を乗り越えたことを意味しています。
彼らは同じような境遇や考えを持った同世代の人と触れ合うことで、「生きる」意味を見つけたのです。
サトシは救世主だった
劇中で主催者であるサトシは、劇中で下記のように語っています。
三回目です。
僕は死にとり憑かれています。
でも、毎回中止になることで嬉しく思う自分がいます。
引用:十二人の死にたい子どもたち/配給会社:ワーナー・ブラザース映画
彼は死への執着に捕らわれていますが、同時に死を望む人達が本当に望むものも知っているのです。
だからこそ、ルールに「議論」を入れているのでしょう。
死への誘惑そして死からの解放、サトシは人間がなぜ死を求めるのかを知りたいだけなのです。
彼らは本当に死にたいのではなく、共感出来る仲間を求めているのではないでしょうか。
死にたいと望む彼らを救ったサトシは、闇の救世主と呼べる存在です。
生きる意味を考えさせられる映画
「十二人の死にたい子どもたち」は生きる意味を考えさせられる反面、現代の闇を垣間見る作品になっています。
家族の在り方、自分自身への愛、見て見ぬふりをしては取り返しのつかないことになってしまいます。
まさに現代社会に警笛をならしている映画だといえるでしょう。
闇はひとりでは抜けられないもの、時に差し出された手を握ることも大切なのではないでしょうか。