愛子が喜朗を誘ったわけを遡っていくと、ひとつの共通点が見えてきます。
キーワードは運命の人
愛子は自分が喜朗の運命の人だと騙しましたが、愛子自身が自分の運命の人を探していたのでしょう。
喜朗の思考をよんだ時に、彼も運命の人を探し求めているということを知り共鳴したのかもしれません。
妄想を繰り返す程強く運命の人を探している喜朗は、愛子にとって魅力的な人物に映ったのではないでしょうか。
エスパー男子は選ばれる可能性があった
愛子は最終的に喜朗を誘っていますが、エスパーの力に目覚めた男子達は少なからず、選ばれる可能性があったはずです。
劇中で超能力者となる条件のひとつに、童貞であることが含まれていました。
愛子の相手となるアダムは童貞でなければいけないのです。
愛子がエスパーたちに近づいたのは、彼女の運命の人を探す為でもあったのでしょう。
妄想の女の子が裸足なわけ
劇中で喜朗は何度も妄想をしていますが、そこに登場してくる女の子はなぜ裸足なのでしょう。
特定の人物ではないから
裸足で外を走る姿は日常生活ではありえないことであり、妄想に出てくる女の子が無防備な姿であると感じます。
現実社会で走り寄ってきた浅見紗英は靴を履いており、暗に彼女だけが運命の人ではないことを示していました。
靴を履いていないということが、結末の運命の人は大勢いるというオチに繋がっているように感じます。
胎児の記憶だから
喜朗の妄想の中では、女の子は彼に恋心を抱いており飾らない姿で登場しています。
ことの発端を考えると胎児のときの約束に繋がり、女の子は胎児が成長した姿といえるでしょう。
靴を履いていないことは、胎児の記憶を感じさせる要素なのかもしれません。
境界線を越えないエロさ
本作品はエロティシズムを前面に出していますが、過剰な露出はなく男子高校生の妄想的な世界観で描かれています。
裸足の女子は無防備なエロさを感じさせつつも、無駄に境界線を越えない純粋さも持っており監督園子温の手腕を感じるシーンでもあります。
青春真っ盛りの男子生徒が妄想する理想の女の子は、裸足でかけていくようなそんなイメージなのでしょうか。
脚フェチという説
劇中には脚を強調するシーンが散りばめられており、喜朗が脚フェチだから裸足だったのかもしれません。
実は園子温監督はインタビューで、自身の高校時代は喜朗と同じような人間だったことを明かしています。
喜朗の妄想の中の女の子が裸足なのは、監督自身が脚フェチだったのでは、ともいわれているようです。
差別への抗議
裸足の女の子のシーンを深読みしていくと、2015年に映画館で起きた女性差別を連想することも出来ます。