全てが母親によってこれまで守られてきたニナに襲い掛かります。
しかし母親は今回はニナを守ることはできませんでした。すべてはニナの精神性、ニナの内面で起こっている問題だからです。
母親の庇護に包まれたまま、その内側でニナはゆっくりと狂気を宿し、現実と狂気の見せる幻の区別がつかなくなっていくのです。
狂気がニナにもたらしたものとは
ニナは狂気によって何を手に入れたのでしょうか。
至高の黒鳥の完成
ニナは「リリー」を鏡の破片で刺して殺害し、その後の黒鳥を見事に演じ切ります。
それは今までニナが踊ったことがない、トマの理想通りの「官能的な黒鳥」でした。
狂気の中にあるニナはリリーの殺害によってニナにはないリリーの魅力、「官能的な踊り」を手に入れたのです。
衝動的に刺したようにも見えますが、無意識のうちにそう考えリリーの命を奪おうとしたのかもしれません。
それゆえリリーが乗り移ったようなトランス状態に陥り最高の踊りを披露できたのでしょう。
狂気によって極限中の極限にまで研ぎ澄まされた精神がそれを可能にしました。
ですがニナが実際に刺したのは鏡に映ったニナ本人でした。
ニナが自分が求めてやまなかった至高の黒鳥の踊りと引き換えにした代償は大きかったのです。
母親からの解放
母親が嫌う性によって得られる「官能的な美しさ」。
その官能性を称えた存在、官能美の象徴である黒鳥の踊りに対してニナの母親は感動し、涙を流します。
それはニナが人間として、またバレリーナとして母親のレベルを超え、もはや母親の支配の届かない域に達したことを意味するとも受け取れるのではないでしょうか。
そういう視点で考えると、ニナの狂気は母親という呪縛から飛び立つための蛹のようなものだったのかもしれません。
芸術家としての試練を乗り越え、新しい段階のバレリーナへ
ニナは狂気を宿すほどに黒鳥の踊りを突き詰めました。それは最高の作品を求めてやまない芸術家であるからです。
ニナの狂気は、それまでのニナの芸術家としての精神性が新しい段階へ進むことに伴う痛みとも考えられるのではないでしょうか。
バレエに限らず、音楽や絵画などさまざまな芸術の世界においても最高のものを生み出すための狂気を宿す人間は少なくないことは歴史からも読み取れます。
ぎりぎりの精神状態に自分を追い詰めるからこそ生まれる最高の作品、自分の魂をかけても世の中に伝えたい何か、そういう想いが時として狂気として現れるのではないでしょうか。
ニナは明らかにバレリーナとしてこれまでとは違った領域に達しました。これは狂気、そして狂気を生むまで自分を追い込んだニナによって実現したといえるでしょう。
ニナが失ったものとは
狂気によって失われたもの、それは純粋さや無垢さ、憧れでした。
少女のように無垢だったニナ
母親に守られて過ごしてきたニナ。
年齢にそぐわないような純粋さや潔癖さ、無垢さは黒鳥を踊るにあたっては欠点になりましたが、日常においては長所ともいえる部分でもあります。
しかしさまざまな経験をし、壮絶な精神状態、狂気を経験した彼女はもはや元通りのニナではありえません。
年齢を重ねるにつれて自然と失ってしまう純粋さや無垢さは意識して保てるものでも手に入れられるものでもない、かなり貴重なものでもあります。
クラシックバレエの世界ではオデットはもちろん、ジゼルのように穢れを知らない乙女や人間の醜い部分を全てそぎ落としてただ無垢に存在するシルフィードのような存在が多くあります。
ニナはおそらくはこれまでそういうタイプのキャラクターを得意としていたと思われます。
ですが精神性が変わってしまい大人として成熟したニナはもはやこれまでと同じ踊りをすることはかなわないでしょう。
憧れの消失
劇中ではニナの生死は明らかにされていませんが、この舞台の成功によってニナは揺るぎないプリマの地位を手にすることは明らかです。
それはこの劇団の中では最高位に君臨することを意味します。ですがそれは追われるものになるということです。
これまではプリマに憧れ、いつかプリマになることをモチベーションとしてきたかもしれません。
これからはそうではなく、かつての自分のようにプリマの地位を虎視眈々と狙うものと相対しなければならないのです。
いつかは衰えて次世代の若いバレリーナに追い落とされることにおびえながら。
ベスのような運命を辿ることになるかもしれないと常に恐れながらその地位を守るためにまた自分を追い詰めていくことになるのでしょう。
終わりに
人の心は非常に難しく、もろく、醜い部分もありますが人の心が美しいものを生み出すこともまた事実です。
誰しもが抱えている心の闇や狂気。それが芸術の糧にもなるということを思い知らせてくれたこの作品にあなたは何を思うでしょうか。