本作の監督である本木克英は、原作から映画への移行する際の匙加減について熟考したのです。
その甲斐あって本作は、そこに描かれていない人物の心情まで手に取るように感じられる充実した作品になったのです。
原作と異なる印象を抱く理由2:原作にしかないエピソード
どうしても削らざるを得ないストーリーがあったという事実は、前項で納得いただけたことでしょう。
では、原作にしかないエピソードには、どのようなものがあったのでしょうか。
児玉通運やはるな銀行の協力
赤松運送と同様の脱輪事故を経験した運送会社として、野村陸運(小説では児玉通運)が登場します。
一方、原作ではこれに加え、赤松運送と児玉通運の関係性についても詳しく記載されています。
大口の取引先から契約を解除されたうえ銀行にも融資を断られ、深刻な資金難に陥っている赤松運送。
その現状を知った児玉通運は、赤松運送に下請けの仕事をまわしたり、新規の取引会社を探しているはるな銀行を紹介したり。
何かと世話を焼いてくれます。
赤松運送は「事故を起こした会社」という悪印象が先行して融資を断られてきました。
しかしはるな銀行は今までの赤松の堅実な経営を正当に評価してくれたのです。
事故以来理不尽なバッシングを受け続けてきた赤松にとって、資金面だけでなく精神面でも大きな助けになったでしょう。
映画では描かれていませんが、こうした背景を知ることで赤松という人間が信頼される理由が見えてきますね。
沢田には夢があった
映画の中で沢田の本来の姿が垣間見えるのが、新車企画の社内コンペに応募するシーンです。
「商品企画部での地位を確立したい」という目的があったことは映画でもよく分かります。
ここに、省かれたエピソードを補完することで沢田がなぜこの企画に駆り立てられたのかが分かります。
「いつか自分のアイデアでクルマを作りたい」
子供の頃からクルマが大好きだった沢田にはこうした純粋な夢があり、希望を抱いてホープ自動車に入社したのです。
その後、社会人として経験を積む中で自社の腐敗した体質を目の当たりにしながらも、その夢を持ち続けていた沢田。
だからこそ小牧に「悪魔に魂を売った」と言われても、夢だった商品開発部へ異動する道を選んだのです。
どこまでも純粋に夢を持ち続けていることを知ると、沢田がより人間らしいキャラクターに見えてきます。
もうひとつの闘いがあった
原作小説には、赤松家の子供たち(原作では二男一女)が通う小学校での出来事も重要なエピソードとして盛り込まれています。
小学校にいる強烈なモンスターペアレントが赤松を犯罪者扱いし、事あるごとに騒ぎ立てます。
親の影響を受けた子供による赤松の息子・拓郎へのいじめも描かれています。
親同士・子供同士の闘いは、小説の中でメインの問題(事故)と両立させる形で展開していきます。
PTAや沢田の妻の部分は、小説でも省略できることがわかっていて、実は省略することも検討した部分なんです。
引用:https://tsutaya.tsite.jp/news/magazine/i/39495455/index
実は池井戸潤が執筆している最中、小学校での出来事や妻についての描写は必ずしも必要ではないと考えていました。
ですから、まるで原作者の意図を汲み取ったかのような本木克英監督の取捨選択に、池井戸潤は驚いたそうです。
原作と異なる印象を抱く理由3:映画にしかないシーンがある
ラストシーンともう一つ、被害者家族の想いを実感した沢田が事故現場を訪れるシーンです。
敵対していた2人が、この場面を境に「被害者のために事故の真相を究明する」という共通目的を持った同士へと変わります。
しかしながら、事故の原因を作った大企業と苦しめられた中小企業という立場が変わることはありません。
同じ方向を見ていても全く異なる立場にいる2人を対比させる、映画ならではの印象的なシーンとなっています。
原作と異なる印象を抱く理由4:登場人物の性格や設定が異なる
人物を目で追う観客にとって、これは印象を左右する大きな要因となるでしょう。
赤松が苦悩する人物として描かれた理由
映画でも小説でも、赤松は情に厚く曲がったことが許せない実直な男として描かれているのは共通しています。