この委員会でマッカーシーが言葉に詰まるシーンはテレビを通じて多くの国民に彼の主張の間違いを見せつける結果となりました。
やがてマッカーシーは上院の同僚から譴責決議案を上程され、彼は「院の品位を損ね、それへの批判を生む行動をした」と譴責されます。
そして事実上政界を追われることになるのです。
しかし、注目すべきは共産党排斥の旗手であったマッカーシーは最後まで国民の一定の理解を得ていた、ということ。
さらに民主党のジョン・F・ケネディやロバート・ケネディは譴責決議の投票を棄権しているという事実です。
アメリカの共産主義アレルギーの強さを物語る事実ではないでしょうか。
こうしてマローらの報道と議会の正常な機能、軍部の怒りから「赤狩り」(赤とは共産主義者、シンパを表す)は終焉を迎えたのでした。
しかし、マローらの報道番組はスポンサーの存在の増大と局の利益第一主義から次第に娯楽番組に押されていくのでした。
「See It Now」も日曜の午後に枠を移動させられた上に人員の削減も決定されていきます。
本作の特色
モノクロの効果
本作ではドキュメンタリータッチを貫くため(また当時のテレビがモノクロだったため)全編モノクロとし、余計な情報を排除しています。
当時のホンモノのニュース映像をふんだんに使いマッカーシーは役者をキャスティングせず作品にリアリティを出すことに成功しています。
舞台のほとんどはテレビ局のスタジオや会議室でセリフ劇のような雰囲気もあります。
しかし、そこは94分という短さにまとめ息苦しさを出さないと同時に映画の主張を色濃くするというクルーニーの演出手法が活かされています。
そして前項で述べてきたマローの口から出る重いセンテンスやCBSペイリー会長とのやりとりなど含蓄の深い言葉を噛みしめるべきでしょう。
一方で「自由と民主主義」について、まずい事態になると自浄作用が働くアメリカという国の素晴らしい面の一端も確認しておく必要があります。
ジョージ・クルーニーという俳優
クルーニーはハリウッドで最も政治的な活動が盛んな俳優の一人として知られています。
立場はリベラルでブラッド・ピットやマット・デイモンらとの活動が取り上げられています。
災害や難民に対し素早い対応で多額の援助金を提供している報道に接する機会も多いハリウッド・スターです。
また、クルーニーの父親はニュースキャスターであり、その影響は本作のテレビ局のリアルな描写の手助けになっています。
一方、本作でクラブ歌手として登場し本作のサウンドトラックでグラミー賞を受賞したジャズシンガー、ダイアン・リーヴス。
彼女の歌声の数々はその歌詞も含め、大切なチェンジオブペースの役割を果たしています。
さすがは伯母にジャズの女性大御所シンガー、ローズマリー・クルーニーを持つだけの事はあるジョージ・クルーニーのクールな演出です。
それにしても当時の男性はタバコをよく吸います。今では絶対にダメですが、スタジオやサブ(副調整室)でもガンガンにタバコを吸っています。
この映画が投げかけるキーワード
マロー言葉の重みは今日にも
本作の冒頭とエンドは「赤狩り」騒動が終わったあとの1959年に開催された「エド・マローを讃える会」でのマローのスピーチで構成されています。
ここで彼が話すことは今日のジャーナリストが聞いても耳の痛い重要な言葉が並んでいます。
「もし50年後や100年後の歴史家が今のテレビ番組を1週間分見たとする。
彼らの目に映るのはおそらく今の世にはびこる退廃と現実逃避と隔絶でしょう。
(中略)テレビは人を欺き笑わせ現実を隠している。」(冒頭のシーンから)
「テレビは人を教育し、啓発し、心さえ動かします。だがそれはあくまで使う者の自覚次第です。
それがなければテレビはメカの詰まったただの箱なのです」(ラストシーンから)
引用:映画「Good Night&Good Luck」(配給:東北新社)
アメリカの自由と民主主義のために、周囲が黙り込む中、体を張って「赤狩り」と対決したマローの言葉は、現代のマスコミに対する鋭い警告となって今、私たちの心に響きます。
マローは、あくまでも公正(フェア)な立場から「人権」や「少数意見の尊重」「法の下の平等」などの自由世界のジャーナリズムの仕事を信念に基づいて実践。
気骨のジャーナリストといえます。
彼の精神は「アメリカの良心」と言われたウォルター・クロンカイト、そしてダン・ラザーというCBSのアンカーマンへと受け繋がれていきます。
彼の言葉を現代の私たちが反芻してみることはとても意味あることでしょう。