両親が死んだクラリスは親戚が営む牧場に預けられますが、ある明け方に彼女は子羊たちの悲鳴で目を覚まします。
その後、牧場に行って彼女が何を見たのかは映画では明言されません。一般には狂気の牧場主が子羊を殺していたといわれています。
いずれにせよ、可哀想に思ったクラリスは羊小屋のドアを開けますが羊たちは逃げてくれません。
そこで彼女は1匹だけ子羊を連れて逃げ出しますが、警官に保護されその一匹も殺されます。
つまり羊、または羊たちの悲鳴はクラリスの傷つけられた純真であり、かつ異常者への怒りでもあります。
彼女が正義感の元には羊たちの悲鳴があるのです。羊は彼女のトラウマであり、かつ彼女を正義に駆り立てる情熱でもあります。
クラリスを沈黙させるガの意味
羊が基本ネガティブなメタファーであるのに対し、ガはポジティブなものです。映画でも幼虫から成虫になるガは変身のメタファーだと明言されています。
殺人鬼のバッファロー・ビルは性転換手術を望んでいましたが、精神病であるためそれを断られました。
そこで変身できない自分を慰めるために、数多くのガを飼っています。また、彼は被害者の女性の口にガのマユを押し込んでもいます。
それは死者がそれ以上変われないということを示唆します。
ビルが大柄な女性ばかりを狙ったのも、それ以上変身できないことをより実感したかったからかもしれません。
ビルの殺人衝動には、抑圧された変身願望があります。
一方で、『羊たちの沈黙』のポスターには、ガで口をふさがれたクラリスが写っています。これは単なる遊び心からだともいえるでしょう。
しかしクラリスが羊だと取れば理解もできます。羊の口をふさぎ沈黙させたものは変身を意味するガ。
つまり羊というトラウマを克服することによって、クラリスが新たな自分に変身できたと読み取ることができるのです。
レクター博士とクラリスの関係は?
映画の中核にあるレクター博士とクラリスの関係は、ひと言では言い表せません。そこにはさまざまな関係が混在しています。
セラピストとクライアント
2人はセラピストとクライアント(患者)という関係でもあります。
レクター博士は最初からクラリスに深い心の闇があると見抜いていた可能性があります。
若く美しい女性が、自分のような異常犯罪者の担当になるのを受け入れたからには相当な心の歪みがあるのではと思ったのかもしれません。
その証拠に彼は最初からクラリスの個人情報を欲します。バッファロー・ビルに関する情報と交換条件にして、彼女から巧みにそれを引き出します。
ここには、人間の深層心理を欲する精神科医の性があるでしょう。クラリスは羊の話をすることで、完全にレクターの患者になったといえます。
ほのかな恋愛感情の共有
2人には淡い恋愛感情もあります。最後の面会の際、レクター博士はビルの捜査資料を渡すときにクラリスの手を指でそっとなぞります。
何気ない仕草ですが、そこには彼の熱望が感じられます。
最後の電話では逆にクラリスの思いが感じられます。レクターが開口一番「羊たちは沈黙したのか?」と問いますが、クラリスはそれに答えません。
そして、レクター博士は逆探知されないようすぐに切ると言います。そこで彼女は何度も「ドクター・レクター」と連呼します。
そこには電話を引き伸ばして、逃亡した彼の居所をつかもうとする意思もあったでしょう。しかし別のことも読み取れます。
それはすでに羊たちが沈黙しており、そのお礼を伝えたかったのではないかということです。
その意味で「ドクター・レクター」と何度も何度も口にしたのは、少女返りしたクラリスだったともいえます。
彼女にとってレクター博士は最後に愛すべき恩人になったのではないでしょうか。