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2006年公開の『手紙』は東野圭吾作の同名小説が元になっています。
罪人の弟という難しい立場をリアルに描き、世間の話題となりました。
そんな映画版『手紙』は原作と少々設定が異なっていますが、なぜ映画では設定を変えたのでしょう。
ラストに流した兄の涙にフォーカスを当てて、差別描写にみる監督の思いを紐解いていきましょう。
原作と映画の相違点
原作である東野圭吾の「手紙」を読むと、映画とは設定が違うことに気がつきます。
原作では漫才師でなくミュージシャン
直貴は映画の中で寺尾祐輔と二人で漫才師を目指しています。
しかし原作を読むと「スペシウム」というバンドを数名で組んでいます。
原作では犯罪者の弟という理由で、メンバーから外されています。
自分から外れた映画に比べ、よりシビアな描かれ方ですね。
バンドメンバーとの一連のやり取りも、差別を表現した心苦しいシーンなのですが、おそらく尺の関係でカットされたのでしょう。
ひったくりにあったのは朝美ではなく由美子
原作でひったくりにあったのは結婚してからの由美子でした。
由美子と子供が怪我をしたことで、被害者の立場に立った直貴が描かれているのです。
映画では朝美が怪我をしていますが、彼女が怪我をしたことで別れ話へ続けるためのショートカットの役割を果たしています。
父親が手切れ金を渡そうとするシーンは原作、映画ともに描かれています。
裕福な家庭の人間が、自分たちより格下だと思っている人間に大金を送るのは人間の浅ましさや傲慢さを表現しています。
限られた時間内の苦渋の選択
東野圭吾の小説は切りとる箇所がない程、密な内容です。
監督生野慈郎や脚本家たちも苦渋の決断で、設定を変えたのではないでしょうか。
上記以外にも原作では直貴が通信制の大学に通ったり、キーパーソンの平野会長の登場が多かったりしています。
現代版設定だからこその差別拡大
原作である「手紙」は2001年から連載されたものです。
この中にネットで情報が拡散していったという描写は含まれていませんでした。
しかし映画版では、殺人者の弟という情報がネットであっという間に拡散していきます。
誰でも簡単に情報を拾うことが出来る時代設定なのです。
現代社会問題になっているネットは、間違った情報や嘘の情報も簡単に流すことが出来ます。
兄剛志の話は、どのように拡大していたのか想像するだけでも怖くなります。
映画に描かれたように、加害者の家族の立場は相当厳しいものになっているのでしょう。