しかもほとんどの場合、カメラが極めて顔に近いところでの演技だったので、自然に演じることが難しかったはずです。
また演出も冴えていました。スーザンとダニエルは漂流直後は共にすぐに救出されるだろうと気軽に構えていました。
それがサメの出現などでじょじょに恐怖に変わります。
また漂流の原因は明らかにダイビング・ボートのスタッフにあるのに、2人は互いに責任をなすりつけあいます。
その後はダニエルがたまらず絶叫したり、2人で遭難をジョークのネタにしたりします。
こういう過程は、精神科医の一般概念である否認・怒り・妥協といった人が死を受け入れるステップと重なるものがあります。
こういった科学的な演出もまたリアリティを高める効果を放っています。
スーザンが最後に取った2つの選択
スーザンは映画のクライマックスで2つの驚くべき決断をします。はたしてその選択の理由は何だったのでしょうか。
愛に裏打ちされた自分の命の尊重
漂流から一夜明け、サメの急襲でダニエルは死んでしまいました。スーザンは漂流するダニエルをずっと抱きかかえていました。
しかし、そのうち意を決したように彼を手放します。まもなくサメが来て、ダニエルは海の中に消えてゆきました。
極限状況においては、それもしょうがないと多くの鑑賞者は共感したはずです。それにこの行為は逆に2人の真実の愛を示してもいます。
スーザンは真にダニエルと愛し合っていたからこそ、彼が自分の命を尊重していることが分かったのではないでしょうか。
「俺を見捨ててでも君は生き延びろ」という声を彼女は聞いたのかもしれません。
もしダニエルの方が生き残っていたとしても、彼は同様にスーザンを海の中に手放したことでしょう。
サメとの決闘か自らの死の受容か
最後の最後にスーザンは驚くべき決断をします。ダイビングスーツを外して自らサメのいる海の中にもぐってゆくのです。
もぐる前にスーザンはじっと目の前の海を見つめます。それは空ろでありながら強い意思を感じさせる眼差しでした。
彼女は黙ってサメのエサになるよりも、サメと戦うことを選んだのではないでしょうか。または、自ら死を選ぶという決断をしたのかもしれません。
死が迫ったとき人はその過程の最後に受容を選びます。スーザンは主体的に死に向かうことで、最後まで自分らしさを貫いたのではないでしょうか。
ラストの大転換に驚かされた理由
実話ベースの映画ですが、結末を知らずに観た人の多くは最後にスーザンまで死んだことにビックリさせられたはずです。その理由に迫ります。
物語バランスの崩壊
映画は最終盤にきて、希望の光がさしこみます。
ダイビングスタッフがボートの残留品でスーザンとダニエルの不在に気づき、空と海とで大掛かりな捜索が始まります。
それまでずっと絶望的な状況が続いただけに鑑賞者の多くはハッピーエンドが当然のように来ると思ったことでしょう。
しかし、スーザンの自殺の決断によりそれは泡のように消えました。
この結末は物語としてのバランスを完全に崩すものであり、鑑賞者を相当にガッカリさせます。
しかしその反面、海や大自然の容赦のないリアリズムを伝えます。
映画はときに鑑賞者を喜ばせない方向に進んだ方が、より質の高い作品になることがあります。
この『オープンウォーター』はまさにその良い一例だといえます。
災害ドキュメンタリーには生還者がいるという思い込み
実話ベースのドキュメンタリー映画という点も、最後の結末を意外なものにさせました。