それはまさに数珠つなぎのシーンだと見れます。つまり神社の場面はベッドで見た彼女の妄想だと読めるのです。
そもそもその2度目の火祭りの時には、夏芽とコウの仲は完全に切れていました。それなのに2人がなぜ神社で再び愛し合おうとするのでしょうか。
後に夏芽の前に現れた強姦魔にもリアリティがありません。1年前と同じ犯罪を同じ町で同じ人にしようとする人がいるでしょうか。
その後、駆けつけたコウが強姦魔の男に打ち勝ち、自殺した男を神の海に遺棄します。そうしてコウは東京に戻り女優として成功を収めるのです。
マルホランド・ドライブに通じる計算された虚実混交
結果的に夏芽は数多くのものを手にします。
コウとの再会・強姦魔への復讐(しかも犯人が自殺したことでコウは殺人者になりませんでした)・女優としての成功。
超ご都合主義ともいえる展開であり、もしそれだけであれば多くの鑑賞者は白けていたでしょう。
しかし、そこにはすべてが夏芽の妄想願望だったという筋も隠されています。最大のヒントはラストシーンにあります。
夏芽主演の映画の1シーンとして男女2人がバイクに乗る場面が流れますが、その途中で映画の主演俳優が突如コウに成り代わるのです。
そこには、すべてが夏芽の妄想だったという暗示があります。
火祭りのシーン以降、すべては引越し前のベッドでコウの数珠をながめていた彼女による願望の産物だったと読めるのです。
デヴィッド・リンチの傑作『マルホランド・ドライブ』でも、それと気づかれない形で虚実混交の構成が敷かれています。
そこではこの映画とは逆に映画の前半部がヒロインによる妄想願望でした。
とにかく夏芽の願望だとすれば、クライマックスの混乱にも1つの確かな道筋が現れるのです。
映画ならではの魅力
原作ファンの多くはこの映画の出来に腹を立てたようです。しかし彼らは映画というものの魅力を理解していなかったのではないでしょうか。
詩のような抽象力
原作ファンの多くは特にコウと夏芽の恋愛が丁寧に描かれていなかったことを非難しています。
しかし映画におけるラブストーリーは漫画やドラマよりも遥かに抽象的になります。大切なシーンだけを描いてその本質をインスパイアするのです。
それは小説に対する詩や俳句に似ています。最小限の量で最大限の表現を狙う。映画もそういう抽象アートの1つです。
しかし先述したようにコウと夏芽が深く結ばれるシーンがなかったのはこの映画の最大の欠点だったといえます。
リアリティ重視による結末の改変
また映画では漫画よりも遥かにリアリティが重んじられます。一連のクライマックスシーンは、明らかなご都合展開です。
そこで脚本も担当した監督は、それらが夏芽の妄想だと受け取れるように構成し直したのではないでしょうか。
原作を読んだ多くの人は映画のクライマックスが断片的過ぎると感じたでしょう。原作ではもっと丁寧に一連のドラマが描かれています。
しかし原作のままの筋では格段にリアリティが落ちます。
いくら変質者でも一度捕まって痛い目にあいながら2年続けて同じ場所で同じ人に強姦をしかけるでしょうか。
それが現実に起こったことであれば、映画を観慣れた人はそこで一気に白けたことでしょう。
溺れるナイフの比ゆ力
『溺れるナイフ』というタイトル通り、映画の中ではナイフが海に沈むシーンがいくつか挿入されます。
それは見事なメタファーになっており、この比ゆ力も映画ならではの魅力だといえます。ナイフは美しくかつ危険な10代を臭わせます。
それは人が手にしたときには力を発揮しますが、海に落ちるとただただ下に沈んでゆくだけです。
それはボーイミーツガールの全能世界から非情な現実の中で無力になったコウと夏芽にも通じます。
『溺れるナイフ』は物語としては未熟です。
それでも演技・構成・メタファー・撮影といった点で素晴らしく、青春恋愛映画として一級品の味わいを持っています。