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ハーヴェイ・ミルクは70年代のサンフランシスコの移民やヒッピー、同性愛者のコミュニティを代表する形で政治活動をスタートしました。
市政執行委員選挙に3回落選しても諦めずに、4度目の正直で当選を果たしました。
職務についたのは僅か1年弱でしたが、彼が亡くなった時、国の歴史が変わってしまった、希望の灯が消えた、と街中が悲しみに暮れました。
何故、彼はそれ程までに支持されたのか?その理由を探っていきます。
ミルクが世界に与えた影響を徹底検証!
最大の強みは生来の人柄の良さ
ミルクは元々、ニューヨークで、金融や保険業界で働いていました。
20歳年下の恋人ができたことを契機に、サンフランシスコに、引っ越します。
1972年頃のサンフランシスコは、アイルランド系の移民が数多く住み、ヒッピーや同性愛者達の転入が相次ぐ拠点がありました。
ユリーカ・ヴァレー、通称「カストロ地区」のことです。
当初は定職にも就かずに気ままに過ごしていましたが、やがて「カストロ・カメラ」という店を開店しました。
ミルクの人柄の良さと、周辺住人たちからの人望の厚さが素晴らしくなじんだのでしょう。
この場所は、いつしか周辺の住民達の情報交換の場、一種のコミュニティセンターのような存在になっていきます。
周囲の社会的弱者の代表として
そんなミルクが近隣の住人達の要望を訊くうち、いわゆる移民や同性愛者たちに対して、酷く保守的で排他的な既存の商工会議所の存在に気付きました。
ミルクは、彼らに対抗すべくカストロ・ヴィレッジ協会という自分たちの手による独自の商工会を結成します。
さらにミルクはサンフランシスコ市政執行委員(日本でいう市議のような役職です)に、何度となく立候補します。
しかし3度目までは、落選が続きました。遂に4度目の立候補だった77年、ミルクは当選を果たしました。
史上初の同性愛者であることを公言した市政執行委員が誕生したのです。
彼の行動の根底に流れていたものとは?
彼が市議を務めたのは暗殺されるまでの僅か1年弱でした。
最大の功績は78年11月のプロポジション6と呼ばれる法案の否決を勝ち取ったことでした。
これは、同性愛者の教師をその性的志向を理由に解雇できるというとんでもなく差別的な法案だったのです。
彼の政策には広い意味で社会的弱者を擁護し「今を生きている若者たちに希望を与える為に」活動するというポリシーがありました。