家柄や階級の差をものともせず、情熱的に求婚される喜びも知らずに終わったはずです。
また婚約者がいながら別の誰かを思っていることへの背徳感も、初めて芽生えたのではないでしょうか。
真実は人を傷つけない
テニスに誘われたセシルは、自分自身について以下のように語っています。
読書以外に脳がない人物、私はそれに匹敵する男なのさ。
引用:眺めのいい部屋/配給会社:シネマテン
本当に「能がない」のかは分かりません。ただ単に俗物的なものを拒絶しているだけかもしれません。
またジョージはセシルを以下のように表現しています。
彼は女性はおろか、誰とも理解しあえない。
引用:眺めのいい部屋/配給会社:シネマテン
同性からこんなふうに評されてしまうのです。
紳士的な振る舞いができる素晴らしい男性であることは間違いありません。
保守的でプライドが高い面が玉に瑕といったところですね。
そんな彼がルーシーから別れ話をされる場面。どうなることかとハラハラする場面だったかもしれません。
しかしセシルは怒るわけでも泣くわけでもなく、最後まで紳士的な態度で彼女の思いを受け入れました。
嘘は刃となって人を傷つけますが、真実はトゲ一つない形でまっすぐ相手の心に届きます。
ルーシーは二人の男性との関わりの中で、思いを正直に伝えることの大切さを知ったのではないでしょうか。
保守的な生活から抜け出すきっかけは誰がくれた?
別れ話の中に、とても印象的なセリフがありました。ルーシーはこのセリフを、ジョージに言われたことがあります。
あなたは本当は愛していないのよ。本当よ。それはきっと所有物としてよ。絵画とかダヴィンチ画なの。そんなのイヤよ。私は私でいたい。
引用:眺めのいい部屋/配給会社:シネマテン
ジョージが言ったとおり、セシルに選ばれて婚約したものの愛されているとは感じられなかったのです。
ジョージはルーシーを所有物としてではなく「彼女自身」として愛してくれました。
ジョージに情熱的な口づけや求愛をされたからこそ、彼女は「愛されること」の本質を知ったのです。
セシルとジョージという対照的な二人がいなければ、ルーシーの人生は全く別のものになっていたことでしょう。
保守的な階級社会から抜け出すきっかけをくれたのはジョージとセシル、二人なのです。
ルーシーが選んだ道は正しかったのか
良家の娘であるルーシーは、周囲にいる大人を見ながら自分のあるべき姿を学び取り、上品な淑女に成長しました。
しかし彼女を幼少期から見てきたビーブ牧師は、彼女を以下のように評しています。
情熱的にベートーベンは弾くが、私生活ではおとなしい。いつの日かきっと、音楽と人生の調和が生まれ、両方とも向上するだろう。
引用:眺めのいい部屋/配給会社:シネマテン
ビーブ牧師は、ルーシーが持っている情熱の火種に気づいていたのです。
しかしルーシーは、ピアノの演奏でしか情熱を表現しませんでした。
感情を表に出すことは、淑女としてタブーだと無意識下で認識していたのでしょう。
セシルはビーブ牧師と同様、彼女の情熱的な一面に気づいていたのかもしれません。
だからセシルは、ベートーベンのような演奏をするルーシーを愛しきれなかったのではないでしょうか。
無意識のうちに閉じ込めていた情熱に気づかせてくれたのが、ジョージです。
情熱的に愛されることで情熱的に愛することを知り、本当の意味で「女性らしい自分」に出会えたのでしょう。
幸せの意味を考えさせられる『眺めのいい部屋』
階級や家柄を重んじた結婚が、必ずしも不幸なわけではありません。
生活をする中で相手の魅力が波のように押し寄せてくることもあるでしょう。
お見合い結婚で幸せを掴む方が沢山いることからも分かります。
また本作のルーシーのように、長年信じて疑わなかった幸せの意味が何らかのきっかけで変わることもあるのです。
自分にとって幸せとは何なのか、今一度考え直したくなる作品でした。