子供ならではの様々な遊びをし、迷子になり、発禁本を隠れて読むシーンは見ている人にもどこか懐かしさも感じさせたでしょう。
大人達がダメだと言うことを一緒に経験してきたからこそ、ふたりはどんどんと仲良くなっていきました。
子供にとって人種の壁は存在していないもの
頭がよくピアノも弾けるボネは最初、カンタンに好かれてはいませんでした。
何を言われても気にしないボネの性格は自分がユダヤ人であるからこそ作り上げたものだったのかもしれません。
ユダヤ人であることをひた隠しにし、ナチスから身を隠しながら過ごすボネは逞しく強い少年でした。
そしてカンタンはボネが自分達と同じ人種ではないと分かってからどんどんと仲良くなっていくのです。
違う人種とわかっていてもカンタンはボネそのものをすきになったのです。
子供の純粋な気持ちがいつだって何だって一緒に行動させました。
ボネがユダヤ人だとか差別・迫害というものは子供たちにとってはどうでも良いことだったのです。
戦争の脅威と隣り合わせの日常
空襲警報が鳴れば、そのまま授業を決行していたり防空壕へ行くときははしゃぎながら行くほど緊張感がありません。
戦争中とは思えない程無邪気に過ごす子供たちでしたが、戦争は子供たちの中にもしっかり存在していました。
もちろん戦争が怖いもので、辛いものだという認識はありました。
しかし、実際に空襲を受けている場所からは離れたところにいて、現実味もなかったのでしょう。
逃れることのできない戦争という事態に対して、不安や悲しみを隠し明るく振る舞うことが子供たちのできる唯一の強さだったのです。
ラストシーンからも見て取れるように戦争とは大人子供関係なく命を奪っていくものでした。
大人には聞こえていた戦争の足音
騙す大人の汚い世界
カンタンの母親とレストランに行った際には義勇兵が愛国者を偽って堂々と過ごし、周囲に不快感を与えていたのです。
ユダヤ人だからと客を追い出そうとし、義勇兵は逆に追い出されることとなりました。
そういった場所で大人達は聞こえのいいことだけを言い、その場をやり過ごすのです。
ユダヤ人のことを良くも悪くもない曖昧な言い方で表現し、その場をうまく逃れることを考えていたのでしょう。
子供が理解できないことをいいことに大人はそれぞれ保身だけを考え、事を荒立てないようにすることしかできませんでした。
ユダヤ人を強く否定することはありませんが、国の雰囲気に気圧され内心はユダヤ人を差別していたのかもしれません。
理解できない子供の純真さと後の残酷さ
そんな大人達のやりとりを子供たちはまだ理解することができませんでした。
戦争というものは理解していてもどこか現実的ではなかったのです。
自分達に戦争の火の粉が飛んでくることはないと考えている部分もあったのかもしれません。