そう考えれば誰かとコミュニケーションをとるというのは、とてもか細い通信方法なのかもしれません。
であるからこそ、人は伝達と共有にこだわるのでしょう。
知るということ
なぜそれほどコミュニケーションにこだわるのかといえば、「知らないこと」を「知っていること」に変えたいからです。
人は未知のものや珍しいものに対して、興味と恐怖を感じます。小学生時代に将也と硝子の身に降りかかった出来事は、本来誰もに等しく起こりえたことなのでしょう。
興味と恐怖のバランスは人によって違うものの、多人数になればなるほど個々の「音」にノイズが混じり聴き取りにくくなり、単純化してしまいます。
終盤、将也は硝子に「わかりたかったんだ」という気持ちを謝罪の上伝えました。
「理解したい」という興味と「理解できない」という苛立ちが「恐いので排除する」という心理に変化し、集団の中で過剰な暴走を引き起こしたと解釈することもできます。
本当の心の音というのは他人どころか本人でも表現できず、言葉どころか身体を使っても足りないものなのかもしれません。
ただし、人はどのような伝わり方をしても結果には責任を持たなければいけません。罪の意識に悩み続ける将也のように。
聞くということ
将也のクラスメイト達の顔には「×印」がつけられ、これは将也の主観的な視点でみた周囲の印象を描写したもの。
客観的なカットに主観的な印象を加えるというアニメならではの強みを活かした手法です。
クラスメイトの声は、意味を持たない音や将也の思い込みによるネガティブな情報として変換されていて、将也はこの時点では意図的に耳をふさいでいます。
一方で硝子の声にならない声に対してはしっかりと耳を傾け、時には言葉の奥にある感情さえ掬い上げます。
劇中での印象的なこの対比は、単に「音が聞こえる」だけでは、また「好ましい音だけを聞く」だけでは、本当に聞いている=コミュニケーションがとれているとはいえないと解釈することができます。
テーマ3:生きるということ
生きていく中で「自分に価値がないのかもしれない」という悩みは、ほとんどすべての人が経験するものです。
同時に解決できないながらもともかく前に進むしかないというのが生きるということでもあるのでしょう。
「聲の形」には「生きるというのはどういうことか」というテーマも提示されています。
誰のためなのか
将也が硝子の心を開くために行動するのは、過去に犯した罪への贖罪の気持ちなのか。愛情なのか。他者を通じて自分という人間を肯定するための手段であるのか。
劇中では将也の対の存在ともいえる植野直花や西宮結絃を通じてこの疑問が幾度となく投げかけられます。
人間は生きるために「許可を求める」生き物です。
自分で自分を許可するだけでは心もとないので、しばしば他人の力を借りようとし、ゆえに人と関わろうとします。
結局のところ人のためというのは自分のためなのかそうでないのか。とても難しい問題です。
人間の持つ多面性
「聲の形」にはいわゆる「悪人」が一人も登場しません。