心中の過去をずっと隠していたことからも、それは罪逃れをしたい彼女のエゴからくるものだったのではないでしょうか。
母の強さは愛とエゴの両方が入り混じったものだったのかもしれません。
「針箱」の真意
母が持つ「針箱」が映画のテーマを伝えるアイテムとして絶妙に機能しています。その真意を探りましょう。
決して消えることのない罪悪
トジュンが偶然拾った針箱を母に渡すシーンは非常に象徴的です。それは彼が、母を殺人犯だと知っていることを示すシーンではありません。
物語全般から彼としてはただ母の落し物を届けたくらいの気持ちしかなかったことが分かります。
しかし母にとって針箱は大きな意味を持ちます。トジュンがそれを渡した時、母はもみ消そうとした自らの罪が甦ったように感じたはずです。
たとえ針箱が返ってこなくても、彼女の中からその罪はいつまでも消えないものになっていたでしょう。
忘却という大罪
針箱はまた忘却のメタファーでもあります。はり師の母はある針を太ももに刺せば、心の中にある悪いことを清めてくれると信じていました。
それは悪い記憶を消せる針治療なのです。最終盤で、母が針を自らに刺すのもそのためでした。そうして彼女は享楽的に踊り始めるのです。
映画は最後に来て忘却の是非を観る者に突きつけました。どんなに大きな罪でも本人が忘れてしまえば綺麗さっぱり消えるものなのだろうか。
それとも忘却自体が大きな罪なのだろうか。映画はラストにそんな問いを投げかけたといえます。
母の涙のわけ
母親が泣くシーンはこの映画の大きなアクセントになっています。2つのシーンの涙についてそれぞれ見てゆきましょう。
枯れ草の草原で流した涙
映画の冒頭、草原で母親が1人踊ったあとに泣くシーンは、映画の最後まで大きな余韻を残しました。
それが綺麗な草原ではなく、薄茶色の枯れ草が生え揃う物悲しい草原だったことにも意味があるでしょう。
母にとってそれは非常に喜ばしいときでもあり、そして心苦しいときでもありました。その大いなる葛藤が草原の涙に集約されていたといえるでしょう。
ジョンパルの前で流した涙
トジュンが犯した殺人事件は思わぬ形で、ジョンパルという別の精神障害者の青年による犯罪になってしまいました。
そして母がそのジョンパルに真相を語らなかったとき、彼女は自分で自分の首をしめたのです。
彼女はずっと精神障害のある息子を冤罪にした警察や世間と戦ってきました。
しかしジョンパルを見放すことで、彼女もまたそれと同じ罪深いことをしたことになるのです。
ジョンパルを前に号泣した彼女には、それを感じる良心だけはまだ残っていたといえるでしょう。
母親の功罪
『母なる証明』は多くの人が望むストーリー展開にはならないため不快に思った人も多いでしょう。その結末の是非について考えます。
勧善懲悪の筋だったら…
トジュンが女子高生殺人の真犯人だと分かった時点で、多くの人がトジュンの母に正義をなして欲しいと願ったでしょう。
目撃者の老人と共に警察署に行って真相を語る。またはジョンパルとの面会の際に、自分の息子が犯人であることを認めて彼を釈放させる。
映画はそういう筋と真逆の方向に進みました。が実際、勧善懲悪に進んでゆけばどんな映画になっていたのでしょう。
母は息子への情愛を断ち切り、彼を警察に突き出して社会正義をなす。世間的にはそれが正解なのですが、ただの理想論という見方もできます。