映画のセリフとは大抵ほぼすべてが1つのストーリー構造の中に収れんされてゆくものです。
しかしそのために人々が交わすリアルな日常会話が抜け落ちていたのです。
『パルプ・フィクション』のハンバーガー・トークは多くの人にそれを気づかせたといえるでしょう。
そしてそれは退屈な話ではありません。その多くはタランティーノ流のブラック・ユーモアが効いた想像力豊かなものです。
『パルプ・フィクション』は数多くの映画が詰め込まれているような印象を与えます。
それはエピソードの数が多いからというだけの理由ではなく、多くのユニークな会話がもたらす効果だったともいえるでしょう。
1つ1つの会話は1本の映画のように感じさせます。
実際ミアが話す「Fox Force Five」のエピソードは『キル・ビル』2部作の構想につながりました。
ハンバーガー・トークは庶民のリアルな声を拾うことと映画の幅を広げたという意味で世界の映画界を大きく変えたといえるでしょう。
言葉遊びの文芸性
ギャングのボス・マーセルスは、ある男を妻の足をマッサージしたという理由だけで4階の窓から放り投げた。
この噂について、ヴィンセントはジュールスにそれが相応の報いだという考えを示します。
彼にいわせれば、感情が入ればマッサージでも女性の最も神聖な場所(作中のジュールスの比ゆ表現)をなめるようなものだそうです。
しかし、それにジュールスはこう反論します。
ジュールス「・・・ain’t the same ballpark, ain’t the same league, ain’t even the same fuckin’ sport.」
(それは同じ野球場でもなければ同じリーグでもない。同じスポーツですらない)
引用:パルプ・フィクション/配給会社:ミラマックス
ジュールスはこう言って、マッサージとなめることの違いを野球にたとえて強調しました。これも映画の日本語訳には入っていませんでした。
セックスを野球にたとえたのは同じ球遊びだからでしょうか。
野球場からリーグ、スポーツとカテゴリーがどんどん広がることで、この2つの違いが面白おかしく伝わってきます。
タランティーノのセリフの醍醐味の1つはこういう小説のような言葉遊びの文芸性にあります。セリフの多くはとてもよく考えられているのです。
可笑しな2つのジョーク
映画には数多くの可笑しなジョークがあります。2点見てゆきましょう。
ミアのトマト・ジョーク
おそらく日本ではこのミアがヴィンセントに話したトマトのジョークが一番おもしろかったという人が多いのではないでしょうか。
3人家族のトマトが歩いていて子どものトマトが遅れたのでパパが踏み潰してこう言います。
「catch up!(遅れるな)」
引用:パルプ・フィクション/配給会社:ミラマックス
Catch upはketchup(ケチャップ)に掛けられています。トマトは潰れるとケチャップ状になるので繋がるという訳です。
これ自体はくだらないジョークです。ミアもそれが分かっていたので一度ヴィンセントに話すのをためらっています。
このジョークが受けるのは話したタイミングが良かったからでしょう。
彼らは死に物狂いである危機を乗り越えます。そこでミアが最後にこのジョークを出したので緊張を和らげる効果を持ちました。
多くの人がミアのジョークを気に入ったのはその適格なタイミングによるものだったのではないでしょうか。
人格があるブタのジョーク
最後のシーンのレストランでジュールスがヴィンセントに話すブタのジョークがよく分からなかったという人は多いでしょう。
ジュールスはブタが自分の糞を食べる汚れた生き物なので豚肉を食べない主義を貫いています。
それにヴィンセントは犬のようにパーソナリティ・人格があるブタはどうなのかと問いました。
そこでジュールスは、あの糞ブタについて話すしかないと前置きしてこう続けます。
「I mean he’d have to be ten times more charmin’ than that Arnold on Green Acres, you know what I’m sayin’?」
(<人格があるブタってのは>『グリーン・エーカーズ』のアーノルドより10倍以上魅力的じゃなきゃいけない。言ってること分かるかい?)
引用:パルプ・フィクション/配給会社:ミラマックス
『グリーン・エーカーズ』とは昔アメリカで人気だったTVコメディです。
その番組では子どものいない夫婦がアーノルドという名のブタを息子のように可愛がっています。
ドラマではアーノルドを学校に行かせるなど人間のように扱って笑いを取っていました。