黒澤明監督が原作にはないシーンを付け加えたのは何故でしょう。
黒澤監督が描きたかったもの
極限まで贅肉が削ぎ落された原作小説は、人間の臭みをそれほど感じません。
しかし映画では、登場人物は汗をかき泥に塗れ、声を張り上げて笑ったり泣いたりします。
この違いから浮かび上がるものは、黒澤は生身の人間に焦点を当てているということです。
対して原作小説は推理小説、あるいはサスペンスの要素に焦点を当てているといえるかもしれません。
原作は推理小説?
ただし小説『藪の中』を推理小説といってしまうと語弊があります。
なぜなら推理小説には厳密なルールがあり、小説『藪の中』はそのルールから逸脱した作品だからです。
しかし謎があり、推理のしようによっては解答が得られそうな謎解きの妙を得た作品であることは確かです。
小説『藪の中』が提示する謎は非常に深遠であり、さまざまな解釈が入る余地がある懐の深さがあります。
ひとつのストーリーとして純粋に優れている原作小説が骨だとすると、黒澤監督が映画で肉付けをしたのです。
黒澤明監督の肉付け
鋭く冷たい魅力を持つ骨である原作小説を覆うために行われた黒澤監督の肉付けは文字通り非常に肉感的でした。
映画を観ていて気付いた方が多々いると思いますが、劇中にはなかなか露骨な暗喩が満ちています。
これも映画という表現手段ならではの、視覚的アプローチを効果的に使った黒澤明監督の手腕です。
あまり直接的な表現を使わないように注意しながら、簡単に解説してみましょう。
多襄丸の刀
真砂の顔がちらりと見えた後、多襄丸は刀をゆっくりと引き寄せます。
その時の刀がどのような形になったか、映画を観た方はお分かりでしょう。
多襄丸の持つ刀は、多襄丸の男性の象徴です。
最後の杣売りの回想では、多襄丸は背を丸め刀を手に力なくぶら下げて退散します。
二人の男の木
多襄丸が地面に寝転び寄りかかっていたのは見上げるような巨木です。
対して、金沢(殺される侍)が縛り付けられているのは切り株です。
木で男性性の大きさの違いを表しているのです。
散りばめられた暗喩
以上に書いたのはわかりやすい暗喩です。これを手がかりに、他にもいろいろと探してみてください。
垂紗から覗く女の顔とは何か、手籠めにするとはどういうことか、多襄丸がどうやって金沢を誘い出したか。
注意して観てみると、ここに書くのも憚られるようなことが映画の幕間から垣間見えるかもしれません。
映画『羅生門』は、見てはいけないものを見てしまう人間の性を浮彫にさせるのです。
杣売りの苦悩は、そして多襄丸の過ちは、見てはいけないものを見てしまったことに起因します。
彼らは「見るなのタブー」を犯してしまったのです。
見るなのタブー(みるなのタブー)は、世界各地の神話や民話に見られるモチーフのひとつ。何かをしているところを「見てはいけない」と禁止が課せられていたにも拘らず、それを破ってしまったために悲劇的な結果が訪れる、あるいは、決して見てはいけないと言われた物を見てしまったために恐ろしい目に遭う、というパターンをもち、見るなの禁止ともいう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/見るなのタブー
人間には禁忌を犯したいという欲望が根源的にあるとされます。いわゆる「カリギュラ効果」です。
カリギュラ効果(カリギュラこうか)とは、禁止されるほどやってみたくなる心理現象のことをいう。例えば、「お前達は見るな」と情報の閲覧を禁止されると、むしろかえって見たくなる心理現象が挙げられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/カリギュラ効果
この映画は隠された欲望を暴く映画であり、私たちはこの映画を観ることで「見るなのタブー」を間接的に犯しているといえるのです。
赤ん坊の示すもの
以上で見てきた通り、この作品は人間の汚い部分をまざまざと描き出しています。
そんな映画のラストで何の脈絡もなく登場したのは、赤ん坊です。
赤ん坊は先述した通り原作には何の記述もありません。完全に映画のオリジナルです。
それでは、黒澤監督は何故赤ん坊を映画のラストに配置したのでしょう。
なぜ赤ん坊は捨てられた?
欲に塗れた人間の汚い部分を浄化し鑑賞後の気分を上向かせるためでしょうか。
未来への希望を象徴させるためでしょうか。