ヴィンセントは最終的にマックスに殺されますが満足の表情を浮かべていました。それも殺したマックスへの敬愛があってのことかもしれません。
タクシーという密室
『コラテラル』ではそのほとんどの舞台がタクシーの車内でした。この密室空間が映画に及ぼした影響について考えます。
タクシーという小空間が映画の大きなフレームに
映画の主要人物であるマックス・ヴィンセント・アニーの3人は、マックスのタクシーの中で出会います。彼らはそれまで赤の他人でした。
それが運命ともいえる偶然で最後に全員が結びつきます。ヴィンセントの最後の殺しの標的が検事のアニーだったのです。
これにはご都合展開だという批判もあるでしょう。
何しろ広いL.A.で他人のアニーとヴィンセントが前後してたまたま同じタクシーを拾うはずはありません。
しかし構成としては優れています。最後にアニーが加わって3人が逃走劇を繰り広げることで、タクシーという舞台が映画全体にスライドします。
つまり構成的に見ればタクシーという小空間が映画という大きなフレームになるのです。それによって映画全体に大きな統一感が出てきます。
タクシーという密室は映画を1つにまとめる装置としても機能していたのではないでしょうか。
他人同士が親密になれるタクシーの魔力
都会のタクシーとは考えれば不思議な場所です。都市部ではビル・お店・公園どこでも多くの人がTPOに応じた社会的役割に縛られています。
しかし唯一タクシーの中では個人的にくつろげるのではないでしょうか。ドライヴァーが気さくなタイプであればなおさらです。
人はまた二度と会わない人にこそ自分の素性や本音を明かしやすくなります。家族にも話せないことでもスラスラ出てくることもあるでしょう。
この映画のように夜の大都会で高速移動しているのであれば、このタクシーの特性はなお際立ちます。
個性がぶつかりあう異空間になるのです。マックスとヴィンセントはほんの数時間ふれあっただけですが2人の人生観は共に劇的に変わります。
それもまたタクシーという密室の魔力がもたらしたものではないでしょうか。
タクシーから始まり地下鉄で終わることが意味するもの
『コラテラル』はタクシーをずっと主な舞台として進行し、最後は夜の地下鉄に移って幕を閉じます。
タクシーと地下鉄は対照的な場所です。タクシーが個性を引き出す場所であるならば、地下鉄はその真逆・個性が死ぬ場所だといえるでしょう。
一度ヴィンセントは地下鉄の車内でひっそり死んだ人がずっと気づかれなかったというエピソードを話します。
それが示すように地下鉄は極めて非人間的な場所なのです。昼夜問わず地下鉄に乗れば誰もが押し黙り自らの人間性を隠します。
そして殺し屋ヴィンセントの死に場所はまさにそんな地下鉄になったのです。
このペーソスあふれる結末は多くを物語ります。彼は最後まで人には個性がありそれぞれの人生があるということを理解しませんでした。
そんな男の死に場所として都市部における最も非人間的な空間である地下鉄はまさにピッタリだといえるでしょう。
タクシーから地下鉄への舞台チェンジは、マックスとヴィンセントの人間性のすれ違いを映し出しているといえるかもしれません。