その後、胸を掴まされたかと思うとその相手は桜に変わっていました。
この夢には、攻撃や愛など様々なものを与える多面的で一貫性のない女性像が描かれています。
相手が遠坂から桜へと変化したのは、夢が象徴しているのが「特定の人物」ではなく士郎にとっての「女性性」全般だからです。
どういうことか。
母親を欠いていた士郎にとって「女性」はある面では未知であり、得体の知れない存在です。
桜に対しても士郎は心を通わせているようでいて、どこか掴みどころのない「不安」を抱いています。
それが不思議な夢の形で描かれたのは、士郎自身がまだその「不安」には気がついていないからでしょう。
しかし本作ではいろいろな仕掛けにより、視聴者が士郎よりも先に桜への違和感を抱くような作りになっています。
実際、本作では桜の内面や過去についてほとんど語られることがありません。
桜が聖杯戦争と関係していそうな雰囲気は示唆されるのですが、実態は謎のままでこの第1作目は終わってしまいます。
これにより、視聴者は士郎が桜に対して無意識に抱く「不安」をあたかも追体験しているかのような気持ちになるのです。
複雑でリアルな人間
ここまでで述べてきたような桜の多面性はむしろ一般的な女性像に近いものだといえるでしょう。
例えば、結婚をすれば夫は妻子のために一生懸命はたらかなくてはなりません。
ただし仕事ばかりで家族サービスを怠ると、妻は寂しい思いをして夫に苦言を呈します。
男からしたら「じゃあ、どうしたらいいんだよ?」と嘆きたくもなることもあるでしょう。
しかし、そもそも日常生活は仕事・家族・趣味など色々なものと折り合いをつけたうえで成立するものです。
極端な方向に振り切ればほかの全てを失うことにもなりかねません。
桜というヒロインの魅力
切嗣のかつての正義とはまさにそのような極端な形のものでした。
そして士郎もまた同じ道をたどりかねない危うさがあります。
士郎に極端な正義を選択させるのは守るべき唯一の存在、つまり桜です。
一方で、極端な選択に対して苦言を呈したのもまた桜でした。
つまり、ステレオタイプなヒロイン像と比べて桜の複雑な役割にはよりリアルな人間像が反映されているともいえます。
そのような人間らしさが本作ヒロインの最大の魅力でもあるわけです。
エンディングの解説
士郎は聖杯戦争でセイバーを失い、満身創痍で家に帰りつきました。
すると家の前には桜が待っていて「おかえりなさい」と士郎を迎えます。
このエンディングは、先述した走高跳びのエピソードを踏まえると多くのことを示唆しているのが分かるでしょう。
士郎はこの時点では「正義の味方を諦める」という選択が可能なのです。
なぜなら無理をしなくても士郎には桜がいるから。
むしろ正義の味方を目指すことは桜の悲しみにつながるかもしれません。
そのためか、敗北を喫したにもかかわらず、桜の前にいる士郎の顔はどこか清々しく感じられます。
もちろん次回作の存在を知っている視聴者には「ここで辞める」という選択が不可能だということは明らかでしょう。
しかし、ここで忘れてはならないのがシリーズ原作のゲームの存在です。
ゲームではプレイヤーの選択によって数多くのエンディングが用意されていました。
もし仮に、本作が3部作ではなく1部完結の映画であったとしても士郎がずっと欲しかったものを獲得するという形で物語は成立します。
つまり視聴者の選択(とらえ方)によって、本作のエンディングには大きな意味を与えることもできるのです。