レイコが7年前に失ったもの。それはやはりあの京都の療養所の存在なくしては考察できません。
あの場所は何を表しているのでしょうか。
外の世界から閉ざされた自然あふれる空間とそこでの過ごし方は、ある種のあの世のようにも捉えられます。
また、レイコの夢の話とされる直子のセリフから、7年間性行為をしていないことも分かります。
ワタナベと性行為をして取り戻したのは「性」=「生」であり、7年前に精神的な「生」を失っていたのではないかと推測できます。
ラストでワタナベがどこにいたのか
「場所」ではないのか
緑「どこにいるの?」
ワタナベ「僕は今、どこにいるんだろう?」
引用:ノルウェイの森/配給会社:東宝
作品のラストのワタナベのこのセリフと表情。
場所としてはレイコを見送った自宅アパートの共有玄関、ということが分かるがゆえに、観る者に戸惑いと強烈な印象を与えます。
ワタナベはいったい「どこ」にいるのでしょうか。
直子の「ここは、どこ?」
このラストのセリフへの最初の伏線が、ワタナベが直子と再会した直後の散歩するシーンに潜んでいます。
「ここは、どこ?」
引用:ノルウェイの森/配給会社:東宝
散歩というには早すぎるスピードで歩いていた直子が突然立ち止まり言うこのセリフ。
この唐突なセリフのシーンは観客がワタナベの視点になり直子からまっすぐな目線を向けられるため、観客に強い違和感を与えます。
直子の精神がここではないどこかにあるような感覚をもたらすのです。
このセリフの存在から、ラストのワタナベの「どこ」も実際の場所ではなく、精神の居場所であることが伺えます。
そして、池のシーンで直子の元から離れないワタナベ。
ラストのシーンでも精神は直子のところにあり、現実の時間と場所に存在できていないから戸惑っている、と考えられるのではないでしょうか。
映画ならではの魅力
ここまで、登場人物たちのいくつかのセリフやモチーフを細かく考察してきました。
原作の人気が高ければ高いほど難しい映画化。本作も原作のエピソードを大胆にカットしています。
しかし確かに感じるのは、登場人物やモチーフの効果的な見せ方、伏線の差し込み方の巧みさ。
それらを情緒的に魅せる音楽と映像表現。
映画のキャッチーコピーである「深く愛すること。強く生きること。」というメッセージが観客の心に染み込んでいきます。
彼らの愛し方や生き方を目の当たりにできること。
この「映画ならではの魅力」が確かに存在するからこそ、賛否両論を巻き起こしながらも多くの人の心を捉えて離さないのでしょう。