そんな中「パッチワーク」によって、図らずもスキンの心を開くことができました。
カナコにはカナコなりの、スキンにはスキンなりの母との想い出がパッチワークには含まれていたのです。
メキシコの家々とパッチワーク
カナコが目にしたメキシコのグアナファトにはカラフルな家々が立ち並んでいました。
それまで孤独でモノトーンだったカナコの世界に、メキシコの街並みは色を与えてくれる存在です。
そしていろんな色の布を縫い合わせた懐かしい思い出である「お母さんの作ってくれた体操袋」。
カナコはメキシコのカラフルさとお母さんの思い出を重ね合わせていたのです。
体操袋を縫ってくれるような優しい母がいたという事実がある反面、カナコを置いて行ったという過去も事実。
母を愛したいのに愛し切れない、憎みたいのに憎み切れないカナコ。この心の揺れを共有できるのがスキンでした。
スキンの傷
顔の傷をパッチワークみたいだといわれたら怒るのが普通の反応です。
しかしスキンにとって「母」というワードは何ものにも代え難いく、カナコに感情移入していきます。
スキンが殺し屋の道に進んだ原因が母だとすると、彼の傷は母に由来するもの。
全ての傷に母への想いが刻み込まれているといえるでしょう。
スキンはカナコの孤独
カナコもスキンも母親を心から愛していたという印象を受けます。
どれだけ母親に思いを寄せていたか、どれだけ母親の作るスフレを愛していたかがスキンの言動から伝わってくるはずです。
母の期待に応えることがスキンの生きる全てでした。これはカナコにも共通した想いなのではないでしょうか。
自分が母親の期待に応えられなかったから捨てられた。だから誰にも愛されないし、必要とされないんだと。
カナコの孤独にクローズアップしたキャラクターがスキンだったといえるのではないでしょうか。
ボンべロの生死
映画を素直に観ればハッピーエンドだと思うはずです。
しかしよく見ると死者の日のお祭りシーンが挿入されていて、違和感を覚えた人もいるのではないでしょうか。
わざわざ死者の日をチョイスしたのには、それ相応の訳があるのです。
死者の日
死者の日とは故人が帰ってくるというお祭りで、日本のお盆と同じ様なものです。死者の魂が家族や友達のもとに降りて来ます。
そんな日にボンベロがカナコの店に来たのです。
監督がこの日を選んだ理由は、ボンベロが実は死んでいたことを観客に気づいて欲しいからではないでしょうか。
カナコにとってこの1日は、大切な人に料理を作ることができる特別な日になったに違いありません。