コルレオーネファミリーの頂点に君臨することは、多くの人の命を奪うことと同義語です。
彼らはドンになった瞬間から、自身の救いはないものと覚悟して生きています。
だからこそあれほど暗い影を身に纏い、孤独を飼ったままでいるのです。
愛ゆえの残酷さ
彼らの愛は組織としての”ファミリー”の存続にしかなかったわけではありません。
この二人の偉大なドンは、愛する家族のためにファミリーを存続させ、成長させたかったのです。
だから”ファミリー”の存続を脅かすものにはとことんまで残酷になれました。愛する家族を守るためだからです。
それがいつしか組織は独り歩きするほど巨大なものになり、さまざまな人間の思惑が入り乱れるようになりました。
そして巨大すぎる組織の存在は大切だったはずの家族まで傷つけることになってしまうのです。
ヴィトーの場合
ヴィトーは家族のために、今後の抗争を切り抜けられる器量を持ったマイケルを後継に選びました。
彼が望んでいなかったその地位は結果的にはマイケルを孤独の中で打ちひしがれて死んでいく運命を決定づけることになります。
家族を守りたい、もちろんその”家族”の中にはマイケルも含まれていましたがその家族への愛ゆえにヴィトーはマイケルを残酷な運命に突き落としたともいえるでしょう。
マイケルの場合
そしてマイケルもまた、自身と同じ血を持つ家族のために、そしてその家族ための組織としての”ファミリー”のために妹の夫を殺すという選択をしました。
”ゴッドファーザー”とは本来、カトリックにおいて洗礼式の名付け親を指し、その存在は後見人、第二の父に匹敵するものとされています。
自分の甥の”ゴッドファーザー”でありながらもその息子に匹敵する存在の甥の実の父を殺す。
その残酷さはコニーを深く傷つけはしましたが、マイケルにとっては兄ソニーを殺した男カルロの粛清は当然のことでした。
マイケルは最初の妻アポロニアの死を忘れてはいませんでした。
裏切り者のカルロと一緒にいることによってアポロニアと同じ運命がコニーに降りかかることは目に見えています。
コニーを守るために下した決断は、コニーにとっては信頼し愛していた兄が最愛の夫を殺したというこの上ない悲劇にほかなりませんでした。
そしてそのマイケルの行動からコニーはもうドンになる前とは別の兄だということを悟ります。
不器用な愛し方しかできなかった男たち
では愛など持たなければよかったのではないか、そう思われるかもしれません。
ですが二人のドンももともとは普通の人間でした。ヴィトーはまっとうな仕事をし、マイケルはマフィアの仕事を嫌う英雄だったのです。
生まれ落ちたときからドンだったわけではありません。
もちろん普通の人と同じように愛することも知っています。
愛する家族のための”ファミリー”、それを守ろうとするために非情にならざるを得なかった男たち。
その”ファミリー”ゆえに愛する人を残酷な運命に叩き落とし、そしてそれらの罪をすべて引き受けて生きていくドンたちの姿にあなたは何を思うでしょうか。
愛を知らなければ、この偉大なドンたちも苦しむことも孤独を感じることも、あれほどの悲哀を滲ませることもなかったでしょう。
この冷酷で非情マフィアの物語は、すべて愛が発端になっていたのです。