ジャクソンももしかしたらこういった形で命を失うことにはならなかった可能性もあります。
成功したミュージシャンのジャクソンは難聴の不安を抱えながら自分には生き辛い世界に身を置いています。これまでは音楽への情熱だけを支えにして。
心を閉じて内にこもるタイプの人間がひとたび誰かを愛したら、その人間はそうその相手なしでは生きていけません。
ジャクソンにとってその相手はアリーでした。
アリーもジャクソンを愛しましたが、ジャクソンとは愛し方が違いました。
喧嘩はしながらもジャクソンの情けないところもすべて受け入れて赦す、母のような深い愛です。
ジャクソンはお互いの人生をも壊してしまうような激しい愛し方でした。やっと見つけた心を許せるたった一つの存在だからです。
そしてアリーの存在は音楽界の移り変わりをも体現していました。
先に少し述べましたが、ジャクソンが体現するロックはジャクソンの存在とともに過ぎ去り、アリーの体現するポップスの時代が到来するのです。
巻き起こった音楽論争
この映画は音楽ジャンルの永遠の課題に火をつけました。ポップは商業音楽、ロックこそ本物の音楽という論争です。
ポップスはセルアウト?
これは散々繰り返されてきた論争ですが、この映画ではカントリー&ブルース寄りのロックを演奏するジャクソンと同じジャンルでアリーは才能を見出されます。
しかし売れるためにポップス寄りの楽曲に方向転換し、ダンスを習い衣装もお色気を感じさせる売れ線狙いのものに変化しました。
ジャクソンはそんな彼女を批判します。
ロックこそが真の音楽、そういうロック賞賛があるのは事実です。
今となっては本来のロックの意義は薄れているかもしれません。
ですがロックは社会的メッセージを持たせ、本来反骨精神や怒り、自分のネガティブな感情などをを赤裸々にぶつけるものであり、その音楽は表現者の分身のような精神性を持っていました。
それゆえロックが賞賛されたのです。
またロックアーティストは自身の内面をさらけ出すからこそ機械を嫌い自分で楽器を演奏することにこだわる傾向があります。
ハイテク技術を使用せずに生身の音楽を奏でるからこそ尊い、そんな風潮があったことは確かです。
しかし、ポップがセルアウトといわれるのはなぜでしょうか。
簡単な話です、ポップは売れているからです。
アリーに見られるように確かに売れるために衣装やダンスなどに手を加え、大衆の受けを良くしている面はあるでしょう。
それでも多くの人が心地よいと感じるから売れるわけです。音楽の形態がポップだからセルアウト、とするのは早計です。
セルアウトとは
確かに売れている音楽の中にはセルアウトとして作られた作品も存在することは確かです。
しかし少なくともアリーのように自分の身を削って曲を生んでいる、伝えたいメッセージやメロディを持っているアーティストの音楽はセルアウトではありません。
実際に米国の人気バンド、リンキン・パークはそれまでの激しいミクスチャーロックから大きく路線変更し、ポップに大きく寄ったアルバム「One More Light」をリリースした際には熱心なファンからも「セルアウトだ」と批判されたことがあります。