ここでは時代背景といった設定より寧ろ演出や構成など作品そのものから逆に見ていきましょう。
カラーと白黒の対比
まず演出という面で目立つのはカラーと白黒の明確な対比、使い分けです。この点はまず欠かせないでしょう。
第一次世界大戦へ出征する前のカリーンとの素敵なロマンスから始まります。
特にベッドでのワンシーンは色気が感じられ、二人で寝そべる所の色気は後半のシーンとの対比にすらなっています。
一方後半で使われる白黒のシーンは悲痛な思いとともに描かれており、看護師が一方的に意識ある肉塊となったジョーを介護するのみです。
同時にカラー=生、白黒=死という対比のようにも感じられ、最後まで一貫してジョーの末路の悲惨さを示してもいます。
カラーと白黒を脚本の意図に合わせてきちんと切り替えているのが、本作の演出にメリハリがを感じられる所ではないでしょうか。
戦争映画におけるセオリーの回避
「ジョニーは戦場へ行った」の物語展開で見逃せないのが戦争映画における「死亡フラグ」を絶妙に回避していることです。
戦争映画のセオリーに「この戦争が終わったら結婚しよう」という類の台詞があり、それが死亡フラグになるというジンクスがあります。
本作でもカリーンという恋人との素敵なラブシーンは実際にあり、しかしジョーはその「死ぬ」ことすら叶わなかったのです。
この戦争映画の文法を意識ある肉塊となったジョーを描ききることで見事に崩したのは凄く大きいのではないでしょうか。
勿論ジョーだけが特別というわけではないでしょうが、彼をここまで追い込んだことで見事にこのセオリーを回避することが出来ました。
延命措置が果たして最善なのか?
ジョーは死んだ方が楽なのにその権利すら奪われている、正に生き地獄なのです。
劇中彼は看護師や医師達に「殺してくれ」「死なせてくれ」と何度も何度も訴えます。
でも彼はどうやっても殺されない、そして死ねないという最悪の状況がずっと続きました。
こうなるともはやジョーの問題よりは寧ろ医療側の問題に落とし込まれます。
現代でもよくある「尊厳死」「安楽死」に繋がる医学のテーマ、「延命措置の是非」がここから見えてくるのです。
なので「反戦映画」というより寧ろ「医療映画」という方が正しく、どちらかといえば「戦争」ではなく「医療」の問題でしょう。
その上で延命措置が果たして最善の策なのか?それを以後述べていきましょう。
ジョーという男
こうしたテーマがあることを受け、いよいよジョーの凄惨な描写へと迫っていきます。
劇中彼は死を真っ先に選ばなかったのですが、それは何故でしょうか?
そしてまたジョーはこの絶望の中で何を感じて、何を訴えようとしたのかを見ていきましょう。
死を「選べなかった」ジョー
結論から述べると、ジョーは死を「選ばなかった」のではなく「選べなかった」のです。爆撃と、そしてその後の看病の中で。
四肢切断だけならまだ何とかなりますが、彼は触覚以外の視覚、聴覚、嗅覚、味覚の全てを爆撃で失ってしまったのです。
これだと言葉を発することも出来ないし、相手側の言い分も何も聞くことが出来ない、何も伝えられないという生き地獄しかありません。
かつ、体を自由に動かせないのですから「選択の自由」という人間に残された最低限度の尊厳すらも根こそぎ奪われています。
何度も心の中では恋人を思い出したり、訴えたりするも、それを行動として具体化出来ないとなれば話は別です。
ジョーは最初から死を「選べなかった」、即ち「選ぶ権利すら奪われていた」というのが実情ではないでしょうか。
看護師の存在
ジョーが死ぬことを選べなかったもう一つの理由は救いの手を差し伸べ、理解者になってくれた看護師の存在も大きいでしょう。
看護師はジョーの胸に指である大事なことを伝えたり、彼が頭を使って訴えた「殺してくれ」というメッセージの意図を汲み取ります。
何も思いを伝える手段を持たなかったジョーに寄り添ってくれた、数少ない存在なのです。ジョーにとって天使の象徴ではないでしょうか。