出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B00166OFA8/?tag=cinema-notes-22
キャサリン・パターソンの原作を映像化した本作は世界規模で興行収入1億ドルを突破した大人気作です。
また放送映画批評家協会賞若手女優賞にアナソフィア・ロブが、サターン賞若手俳優賞にジョシュ・ハッチャーソンがノミネートされています。
日本では2008年公開でしたが、文部科学省により2007年に既に家庭向け選定作品に指定されているほどです。
更に製作・脚本には原作者の息子デヴィッド・L・パターソンも携わっており、親子二世代の作品としても注目されました。
2人の少年少女の出会いとそこから始まる少年期特有の空想物語、そして少年期に必ず訪れる「死」という通過儀礼が克明に描かれています。
本作ではその「死」の演出の意味、そしてラストシーンの真意に迫っていきましょう。
「想像」と「現実」
本作全体を貫くのは「想像」と「現実」です。ではそれがどのようにして描かれていったのか?
ジェスとレスリー、二人を中心に考察してみましょう。
「想像」に生きる二人
ジェスとレスリーはとても対照的な性格です。家庭にも学校にも居場所がなく、孤独なジェスはいじめられっ子でした。
一方のレスリーは明朗快活で溌剌としていて利発的、いじめに対しても全く怯まず、文章表現も巧みです。
しかし共通しているのは二人とも「居場所」がないという点でした。
いじめられっ子のジェスだけなら兎も角、家にテレビがないだけでからかわれ理解が得られないレスリーも同じ位孤独です。
一見「陽」のレスリー、「陰」のジェスという形で対比されていながらも、二人は内面に孤独さを抱えていました。
その孤独さこそが二人の中にある「想像」を大きく膨らませる源になったのでしょう。
レスリーとかかわる内にジェスも表情や仕草が段々生き生きしてきて、「想像」により強く逞しく成長していくのが分かります。
二人がとても輝かしい生命力溢れる存在として描かれているのは何よりもこの卓越した「想像」なのです。
「現実」に生きる周囲の人達
一方ジェスとレスリー以外の学校の子達、そしてジェスの家庭は「現実」に生きる、つまり今一つ生気が感じられないのが分かります。
特に最上級生のスクールカーストの支配者であるジャニス、そしてジェスの両親などはその「現実」の象徴でしょう。
共通しているのは全員がどこか歪んだ負の感情をエネルギーにして動いているという点です。
貧乏な家庭で何とか子供達を食わせることに必死な両親はジェスに夢なんか見ないで現実を見ろと否定し、ジェスの内面に理解を示しません。
ジャニスも下級生がトイレに入るだけで1ドルせびったり、登下校のバスでは女王の如く後ろの席のど真ん中にふんぞり返る傍若無人さです。
他者を踏みにじることに対して何の罪悪感も抱かない周囲の人達は「想像」が欠如した存在なのではないでしょうか。
そのように動く人達の根幹はどこまで行こうと負の感情であり、様々な形で人の心から大事な物を見えなくしていくのです。
テラビシアとは?
そんなジェスとレスリーの二人は打ち解けていく過程で近所の森の中に秘密基地を作り、そこを「テラビシア」と名付けました。
二人が名付けたこの架空の国は果たしてどのような場所だったのでしょうか?
児童文学版「スタンド・バイ・ミー」
孤独を抱えた二人の関係はさながら児童文学版「スタンド・バイ・ミー」とでもいうべきでしょうか。
二人の関係は少年少女でありながら全く「男女」という意識がなく、接し方も忌憚がありません。
しかし、だからといって「友情」というにはかなり儚く、そしてどこか危うくて脆いのです。
一緒に遊んで笑っていても、ふざけていてもどこか彼らの空気は寂しさ、切なさをその身にまとっています。
そして特に川をロープで渡るとき、溺れるかも知れないという「死」の恐怖と隣り合わせなのです。
その雰囲気が正しく孤独で危うい少年達のひと夏の冒険「スタンド・バイ・ミー」に重なって見えませんか?
全体を通してどこか晴れやかでない重苦しい空気があるのは何よりも彼らがまとっている若さ故の青い苦さにあるのです。
「現実逃避」ではなく「現状打破」
ジェスはレスリーと森の中で遊び、また彼女の家族との関わりを持つ中で徐々に閉ざしていた心を解放していきます。