そうした遊びは一見家庭や学校が辛いから逃げ場所をそこに作っているだけの「現実逃避」に見えかねません。
ジェスは父にことある毎に「夢ばかり見るな。働いて金を稼げ。」と何度もきつく詰められてしまうし、学校でもいじめは続くのですから。
しかし中盤、メイベルがいじめられたことがきっかけでジェスとレスリーは何とジャニスへの報復を決行します。
その内容はジャニスが好意を抱いている男の子からの偽の恋文を綴り、恥をかかせるという一番鋭くジャニスの心を抉るものでした。
想像力豊かな二人が手を組むことで遊びで培った要素をもって現実のいじめに打ち勝ったのです。
故に決してただの「現実逃避」ではなく寧ろ逆の「現状打破」というのがこのテラビシアで二人が成し得たことではないでしょうか。
この出来事によってジェスは大きな自信がつき、徐々に現実は変わっていくことになるのです。
思考は行動で現実化する
こうした現状打破の力を持つ、ある種のパワースポットのような「心を開く」場所の象徴としてテラビシアは描かれています。
何故こんなことが可能になったのか?勿論ジェスとレスリーが二人とも想像力豊かな芸術家気質であることはいうまでもありません。
ですが、もう一つの理由はテラビシアが世俗から切り離され、美しい絶景も望める特別な場所だからではないでしょうか。
そうして自然で得た力、言葉は行動を伴うことで「現実」を変えていくものとなります。
ここが一番大事なポイントで、テラビシアという架空の国の想像で得た力を今度は「行動」として実践せねばなりません。
「思考は現実化する」といいますが、思考するだけでは何も変わらず、実現に向けての具体的な行動が必要となるのです。
故に「テラビシアにかける橋」はただの「願ったことが叶う」国なのではなく、現実を変えていく為の前向きな想像力を培う大切な場所なのです。
レスリーの死
ジャニスへの報復が成功した矢先、何とレスリーは思わぬ形で悲運の死を遂げることになります。
ここで物語は急転直下となるのですが、その死は果たして何を意味するのでしょうか?
神を信じないレスリー
レスリーはいじめられっ子だったジェスの心を遊びを通して解放し、また大泣きして孤立してしまったジャニスとも和解します。
その後の日曜日、レスリーは教会からの帰り道「聖書は信じない」「神様は世界を動かすのに忙しい」と突然口にするのです。
ここまでの流れでキリスト教、聖書の話は出てこなかっただけにかなり唐突な違和感を生じさせたのではないでしょうか。
しかし、これが実は凄く重要なヒントになっているのです。
レスリーは「聖=キリスト」の象徴
大胆にいえばレスリーは「聖=キリスト」の象徴です。ジェスやジャニス、メイベルと比べるとまるで俗っぽいところがありません。
女の子の割には早熟なタイプで、どこか達観していて機転も利くし何をやらせてもそつがないと、浮世離れし過ぎています。
両親からの愛情をたっぷり受けたからとはいえ、全然すれた所がないし、かといって清純可憐というわけでもないのです。
しかし、遊びなどを通して家庭にも学校にも居場所のなかったジェス、父から虐待を受けたジャニスの心を救済しています。
これはレスリー自身が「テラビシアにかける橋」における「神様」のような存在として描かれているからかもしれません。
であれば「神様は世界を動かすのに忙しい」という台詞は子供達の世界を動かすのに忙しいレスリー自身を表わしているのではないでしょうか。
テラビシアという国を想像したのも殆どが彼女ですし、どこか普通の子供ではない神童、それがレスリーなのでしょう。
レスリーの死がファンタジーな描写にされた理由
こうして見ると、「テラビシアにかける橋」で一番不可解なレスリーの死の描写も説明がつくのではないでしょうか。
レスリーは雨の日に川をロープで渡ろうとしての溺死であったと説明されていますが、その事故や死体が具体的に描写されません。
非常にファンタジックな描写ですが、彼女の死を明確に描写しなかったのは最期まで彼女の「聖」を貫く為でしょう。
もしレスリーの死が具体的に描写されたら、その瞬間に彼女自身もただの「人間」という見え方をしてしまいかねません。
神童として描かれたからには最期まで隙のない存在として描かれなければならず、物語の駒となることを防ぐ必要があったのでしょう。
だからこそ「死」を敢えて描かないことが、レスリーが持つ謎めいた神童としての側面を押し上げたといえます。
レスリーの存在を示す「物」の消失
レスリーの死の描写が徹底しているもう一つの点は彼女自身を示す「物」がどんどん失われていく、ということです。