まだ絶望を味わう前の幼いクレアは、おそらく家でオートマタと遊んでいたはずです。
その中の歯車は彼女の友達のような存在だったに違いありません。
だとしたら、この店に来た幼いクレアの気持ちが温かく弾んだのもうなずけますね。
クレアが歯車のことを語らなかったからこそ、ヴァージルは彼女の記憶を信じたのでしょう。
彼女の記憶の中には、楽しく温かい気持ちだけが残り、歯車という物体は意識の下に潜り込んでしまったと考えるのが自然だからです。
ようやく信じられるものをつかんだヴァージルは、歯車に嘘偽りのない自分自身をも見出したと考えられます。
大学時代に卒業論文のテーマとしてオートマタを選んだほど純粋無垢な自分にとっても、歯車は大切な心のよりどころだったはずです。
たくさんの大きな歯車を施したレストランの内装に呆然としながらもしばらく思いを巡らせ安堵のため息をついた表情が何よりの証ではないでしょうか。
そして、彼の心のなかに生き続ける素顔のクレアとの絆を巧みに表現していたのが、連れがいると主張した瞬間です。
「天才鑑定士」の真相に迫る
さて、ここまでで第1の問である「最後にレストランに向かった理由」の大筋を駆け足で考察してきました。
ここから先は、もう少し丁寧に順を追って、この作品の大きなテーマとメッセージを考えてみましょう。
まずこの物語の本質を形成するのは、主人公が希代まれなる古美術の鑑定士であるという設定です。
一見特殊な設定に思われるかもしれませんね。
ただ、「ある職業の特定分野で秀でた才能に恵まれ、皆が驚くような実績を築いた人」と言い換えれば、あなたの身の周りにも思い当たる人がいるはずです。
もしくは、あなた自身かもしれません。
天才ゆえの驕りが招く悲劇
職業人として世界最高水準にあり天才と称されるヴァージルですが、その裏返しとして仕事を離れたときの性質も凡人とは似ても似つきません。
人の肌や持ち物に素手で触ることは一切なく、スケジュールは秘書任せ、直接電話に出ることもなければ携帯電話を持つつもりもない変わり者。
ひとことで言うなら、「自分の我がままはすべて世間に通用する」と信じて止まない性質なのでしょう。
ところが彼には唯一見落としてきた人間の心理がありました。それが致命的な過ちを招いたのです。
それは信頼し切ってきた仲間からの憎しみと恨み。
悪企みの相棒としてのビリーには才能がないことを露骨に伝えるような無神経なとこがあります。
画家になりたかったビリーにとって、その言葉は人格否定にも似た酷なものだったでしょう。
ビリーはそんな辛い思いを微塵も見せることなく明るく振舞うのですが、心の中では辛い思いが重なって憎しみと恨みの感情が蓄積していたに違いありません。
心の底に蓄積する憎しみと恨み
一方、ロバートは自分の職業人として技術をヴァージルに認めてほしかったはずです。
オートマタの復元に情熱をそそいだロバートは、表面上はクールにふるまっていますが、毎晩徹夜で作業に没頭したことでしょう。
ところが、ヴァージルは完成間近のオートマタに関心を示さなくなったのですから、ロバートがヴァージルへの憎しみと恨みを募らせるのは当然のこと。
さらにその理由がクレアに夢中になるあまりだと分かれば、ロバートの心は穏やかではいられません。