それは、樹木希林という人間の前に木寺一孝という人間が完全に屈服した瞬間でもあります。
監督と女優ではなく、人と人になったのです。
本当の意味でのドキュメンタリー
それは本末転倒な展開です。
しかし、希林さんの自分中心でいいという言葉に助けられ撮影は続きます。
希林さんは初めからこれ以上何も出ないよと言っていました。
希林さんがこの取材を受けた理由のヒントがここにあります。
「自分からは何も出ないけど、私という毒に触れたあなたがどういう風になったかを描いてみなさいよ」というメッセージだったのです。
この作品の主役
「この作品の主役は私じゃない、あなたなのよ」という強烈なメッセージを喰らわされた監督は真意に気づきます。
そう、この作品から何かを得ようと劇場に足を運び、監督に苛立ち酷評する観客自身だったのです。
わかっていた結果
監督は編集段階でこの作品を世に出せば酷評を浴び、自分の未熟さを晒すことになるのは承知していました。
ですから「希林さんは素晴らしいのに監督が…」という観客の評価は、監督にとって思い通りの最高の評価なのです。
「木寺さんならいいよ」という希林さんの言葉の真意はここにあります。
木寺さんなら良い理由
一筋縄ではいかない自分の個性を描くには、自らを生贄にするしかないほど不器用な木寺監督が良いと希林さんは考えたのでしょう。
だからこそ一人だけならという条件を付けたのです。
他の監督が撮ると仮定します。
おそらく観客が期待する「樹木希林」が上映されることになるでしょう。
観客は納得し希林さんやその監督を絶賛して、良い映画だったと評価するはずです。
でも、それは「女優樹木希林の日常」とはいえません。
彼女の日常は演じる事なのです。そのことは希林さんが一番よくわかっていました。
そして見えた“樹木希林”の生きざま
この作品を通して見える希林さんの魅力は、彼女の生きるスタンスです。
希林さんにとって、ちゃんと生きるということは、なんでもないことちゃんとやることです。
そして、それを実践した姿にはとてつもない凄みさえ感じます。
希林さんの演技に感動するのは、そんな生きざまを目の当たりにするからなのだとこの映画は教えてくれます。
作品の最後に編集中の作品を監督から見せられて希林さんは楽しそうに笑いました。
そして「あなたはここでこう感じたのね」とでも言うように全部を容認します。
その容認こそが樹木希林なのです。
エンドロールが終わり、梅干しを配る場面が印象的でした。
この時に見せた笑顔に「樹木希林」ではない「内田啓子」を観ることができます。
このエンドロールの後だけが、希林さんを主役としたドキュメンタリーなのです。
改めてもう一度観た時に、初めてこの作品が理解できるのかもしれません。
樹木希林の魅力は生半可では触れられないということでしょう。