娼婦スティービーはトレバーにとって「俗なる現実」の象徴です。
トレバーもスティービーも共通項は「精神的な孤独」を抱えており、肉体関係でしか安らげないということでした。
物凄くドライな関係ですが、こういう存在に頼らないといけない程トレバーの精神は限界に来ていたということでしょう。
悪くいえば「傷の舐め合い」ですが、爛れた人間関係の中に身を置かざるを得ないのがトレバーの状況の厳しさも示しています。
マリア=聖なる理想
そんなスティービーとは対照的にアイバンと並ぶマリアは名前が示すように「聖なる理想」、即ち「聖母」の象徴です。
彼女が空港のウェイトレスであるという架空の設定になっているのも、そこから来ているからであります。
空港=港=来客を受け入れる場所という設定もそのような「母性」の意味で用いられているからでしょう。
そのような存在を作り出していたということはトレバー自体がどこかでマザコンの気があったからかもしれません。
男性は皆マザーコンプレックスとはいわれますが、トレバーはひき殺したのが母と子であった為にその意識が余計に強いのです。
これがあるからこそトレバーが単なる女狂いになっていないのではないしょうか。
「眠り」の意味
かようにずっと罪の意識に苛まれたトレバーは最後に漸く安心して眠れるようになります。
この「眠り」が何を意味していたのか、是非見ていきましょう。
「罪悪感」からの解放
トレバーが奥底に抱えていたのは最終的に1年前に無実の母子を交通事故で轢き殺したことへの罪の意識でした。
そしてそれを警察に自白した瞬間、初めて彼は不眠から解放されるように安堵して眠り始めるのです。
ここで面白いのは普通「人生の墓場」として示される贖罪、逮捕が「救済」として描かれていることであります。
つまり誰にも真相を打ち明けられなかったトレバーが最後で漸く罪を告白したことで罪の意識から解放されたのです。
最後の逮捕が決して悪印象でないのはその「逮捕」=「悪」という認識を和らげてくれる所にあるのではないでしょうか。
手を洗う=罪の洗い落とし
そしてもう一つ、「マシニスト」でよく話題になるのはトレバーが手を執拗なまでに洗う描写です。
これはトレバーが何としても自身の犯した罪を洗い落としたいことの象徴として描かれています。
本作に限らず手を洗うことで罪の意識を洗い落とそうとする描写はありますが、本作は特にそれが顕著です。
こういう細部にまで配慮が凝らされているのもまた本作の大きな魅力です。
罪からの解放=許し
こう見ていくと、「マシニスト」が目指そうとしたものが最終的に「罪からの解放」=「許し」にあることが分かります。
一人の名もなき機械工が起こした一つの交通事故を起こした故にずっと罪から逃げる為の自己防衛をしなければいけなかったこと。
そして、その為に数々の妄想を脳内で作り出さなければならず、でもその逃避が何の解決にもならないという残酷な現実を示しています。
それをトレバーという一人の人間に凝縮し、シンプルな物語を複雑化させていくことで魅力的に見せたのが本作の功績でしょう。
そしてまた、それが現代の若者の抱える本質的な孤独さをも突いているのが何よりも鋭い所ではないでしょうか。