様々な困難や痛みを伴っても、最後まで希望を捨てずに心底から大切な人を見事に手にしています。
一方のマリエッタは父、娘、セイラーと大切な人や物を次々と奪おうとし、結果絶望しか生まなかったのです。
マリエッタの元からは人が離れていき、遂には自身の精神を崩壊させる形でその代償を支払いました。
この親子は正に希望と絶望という要素の象徴にして体現者であったといえるでしょう。
デルが消息を絶った意味
「ワイルド・アット・ハート」を語る上で外せないのはデルですが、彼もかなり狂気じみた存在でした。
彼は何と黒いゴム手袋のエイリアンが捕まえに来るなどという妄想に囚われ、体内にゴキブリを入れているのです。
クリスマス以外年がら年中発狂気味ですが、彼もまた絶望から生じた狂気に身を滅ぼしたのでしょう。
デルが消息を絶つことは「もう一人のマリエッタ」の具現化だったのではないでしょうか。
そしてそれはまた本作の真の悪が「思い込みから生じた執着」にあることの証明でもあるかもしれません。
魔女の正体
「ワイルド・アット・ハート」には最後善い魔女が現われます。
果たして彼女は何者なのでしょうか?
セイラーが本当に望んだもの
善い魔女は最後刑務所から出所し、チンピラ達に殴られたセイラーの前に訪れました。
そこで彼は奥底で望んだものが他ならぬルーラとの愛であることを自覚するのです。
彼のワイルドさは飾りでしかなくなり、ルーラという一人の女性の為に生きる優しい男になりました。
子供を妊娠させたことにさえ幸福を感じず、暮していく為の大金すらも彼には何の価値もありません。
本当にただただルーラという一人の女性を愛し、そして愛されることを望んでいると魔女は気付かせました。
だからこそセイラーは名曲「Love me tender」をルーラに捧げたのです。
理想郷の女神
セイラーとルーラ、二人の男女が様々な困難を乗り越えて本当の自分と向き合った先に漸く魔女と巡り会えました。
それは彼らが奥底から望んだものを手にした先にあるものであり、即ちオズの国の神=理想郷の女神ではないでしょうか。
この世界が様々な汚いもので満ちているなら、大事なことはそこから逃げずに立ち向かい自分を偽らないことです。
自分と向き合い現実に負けなかった者だけが善い魔女と出会い、望みを叶えられるのですから。
愛による救済と映画の再生
「ワイルド・アット・ハート」は表向きセックス・暴力・酒といった様々な生臭い要素が散りばめられています。
しかしそれらはあくまで装飾であり、全てを取っ払った先に残るのはこれ以上ないピュアな男女の愛なのです。
それは同時にヌーヴェルヴァーグで破壊された映画というジャンルの再生をも意味したのではないでしょうか。
そしてまた、何が正しくて何が間違いかも分からない現代社会を生きる我々への泥臭い応援メッセージでしょう。
何かとキワモノ扱いされる本作ですが、今この時代にこそ是非見直して欲しい作品です。