九太の落とした「白鯨」の本を見て一郎彦は、人間である九太への憎しみという心の闇を膨張させ鯨の姿にしたのでしょう。
魔物化とした一郎彦
「白鯨」の物語の中では鯨は魔物として主人公に襲いかかるのですが、鯨と化した一郎彦も魔物となり九太に襲いかかります。
一郎彦の心の闇と自分の心の闇は同じだと考えていた九太は、楓の言った通り自分の心の鏡となった一郎彦と戦う必要がありました。
しかし、「白鯨」の主人公のように引きずり込まれるわけにはいきません。
熊徹が九十九神になった理由
熊徹は宗師の座になど全く興味はなく、ひたすら強い者と戦い勝利することで戦う意味を自分でみつけ証明をしたかったのです。
宗師の座をめぐる猪王山との戦いでは熊徹が勝利しました。それもつかの間、熊徹は一郎彦の憎悪によって深い傷を負います。
熊徹が九太に残したかったもの
熊徹が九十九神となって九太の心の中の剣になると決めたのは、自分が子供の頃してもらいたくてもしてもらえなかったことなのでしょう。
「九太の胸の中の足りないもの」とは熊徹が生きてきた中で自力で手に入れたもので、九太の足りない物とは確固たる信念と諦めない気持ちです。
熊徹の導きで九太は一郎彦と渋天街を心の闇から救うことができたのです。
九太の親になりたかった熊徹
母親を亡くし父親の存在もなかった九太の境遇は熊徹も同じで、熊徹は師弟という関係を超え九太の父親になりたかったのではないでしょうか。
九太の心の中に入ることで熊徹は九太と一緒にいたかったのです。そして、九太の中で熊徹は生き続けることが願いだったのでしょう。
九太も一郎彦も「バケモノの子」
九太も一郎彦も人間でありながらバケモノに育てられた「バケモノの子」でした。
九太は“蓮”という人間としての自覚がありましたが、一郎彦は人間に捨てられ人間とも知らず“バケモノ”として生きたという差がありました。
楓のように人間の親に育てられたとしても必ずしも幸せとは言えず、バケモノの親に愛情をかけ育てられても真実を知らないと不幸を生みます。
唯一、九太は自分の意志で渋天街で生きていくことを決め、熊徹の強さに共鳴し共存するための方法を探ったことが功を奏したのです。
生きていくための支え
人を育てるということは実は傲慢な考え方で、親であっても上司であってもお互いをよく知り認め合っていくことが、生きていく支えとなります。
細田守監督は多様な世の中にあって「子供が進むべき道しるべの見分け方」、「大人が示すあるべき姿の重要性」をこの作品に込めています。
人は一人では生きていけないし成長していけません。沢山の人の支えや応援があれば豊かな人生が送れるものです。
生きていくうえで人と人は支えあい励ましあう気持ちがとても大切で、念頭に思うことが大事だと教えてくれた作品でした。