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映画「ドッグヴィル」はデンマークにて製作されたラース・フォン・トリアー渾身の一作です。
2003年公開当時、カンヌ国際映画祭コンペティションにもノミネートを果たしています。
『マンダレイ』『Washington』と合わせて「アメリカ三部作」と呼ばれる程ですか、大変な覚悟で撮られています。
人間の「本性」を描き出した本作は全九章の物語構成と舞台劇のような装置での撮影等々非常に独特な作りです。
本稿ではその中で犬だけが生き残った理由をしっかり考察していきます。
そして、ラストシーンが示す意味、また細やかさの行き届いたリアルな描写に投影された物語の真意も見ていきましょう。
舞台劇
「ドッグヴィル」は舞台劇どころかもはやセットが舞台そのものというとてつもない文法破りを仕掛けています。
ここまで大胆なアプローチを行うことで何が表現されているのでしょうか?
想像力の喚起
一点目として挙げられるのは舞台劇そのものが持つ「想像力の喚起」です。
舞台とは役者の体と声、そしてセットや小道具といった必要最小限の道具で表現しなければなりません。
見る側はその劇空間が本物でないことを承知の上で想像力を働かせて舞台を見るのです。
「ドッグヴィル」ではそのような作りにすることでかえって役者の演技、物語の中に入りやすくなります。
敢えて違和感を与える
二点目は舞台劇仕立てにすることで、敢えて視聴者に「いつもの映画とは違うぞ」という違和感を与えることです。
物語そのものは実は凄くシンプルで、でもだからこそそれを直球でやっても効果はありません。
「ドッグヴィル」はそこでまず画面作りから大きく変えることで徐々に慣れさせていくのです。
グレースへの感情移入
そうして大がかりな舞台劇を作り上げることの真の狙いはグレースという主人公に感情移入させることにあります。
舞台劇に違和感を覚えながらも徐々に慣れていく視聴者と村に徐々に溶け込んでいくグレースを上手くリンクさせるのです。
グレースという主人公は本来感情移入し辛い存在なので、前半は兎に角丁寧に彼女の存在を視聴者に馴染ませます。
これだけの仕掛けを念入りにすることで漸く本作の作品世界が成立する仕掛けなのです。
村社会の異質さ
ドッグヴィルで働くことを交換条件に受け入れられるグレースですが、後半裏切られていきます。
そこで表現されている村社会そのものが抱える異質さについて見ていきましょう。
「郷には入れば郷に従え」は正しいのか?
後半グレースは銀行強盗の罪で警察から指名手配されていることが判明し、ここから村社会の掟が崩れます。