ケイラもマークもどちらも「本当の自分」と「理想の自分」であることに苦しんでいました。
ケイラは「イケてる若者」を目指すほど空回りし、マークも「理想の父親」を目指して空回りします。
しかし、それが上手く行かないのは結局本来あるべき自分の姿を見失っているからです。
だからこそ二人に最も刺さる言葉が「自分らしくあれ」というこの言葉なのでしょう。
それを認めたとき、ケイラもマークも本当の自分に戻ることができ、真の親子に戻れたのです。
タイムカプセルを燃やした意味
最後の動画を撮影する前段階として、ケイラは過去の自分が残したタイムカプセルを燃やします。
タイムカプセルに映っていたのは過去の自分が未来に向けて語る理想の自分でした。
それを燃やしたことには果たしてどのような意味があったのでしょうか?
現実の辛さを知らない
ケイラがビデオを燃やした第一の意義は過去の自分が現実の辛さを知らないからではないでしょうか。
よく子供の頃に描いた夢などというものは大人になると全くその通りになってないことが大半です。
それはまだ幼すぎて単純かつ狭い世界の中だけで生きているから、外の世界の怖さを知りません。
ケイラは痛い現実を味わってきたからこそ過去の自分が如何に向こう見ずだったかに絶望したのでしょう。
変われなかった自分への苛立ち
そんな現実の辛酸を舐め尽くしたケイラがタイムカプセルを燃やした火は彼女の苛立ちをも表わしています。
「学年で最も綺麗な瞳賞」の人気者ケネディの誕生日会のプールで頑張った努力も誰にも評価されません。
またケイラに話しかけてくれていたイケメン・エイデンも性欲のはけ口にしたいだけの下品な人間でした。
高校体験入学で仲良くなったオリヴィアとも同級生のライリーやトレヴァーに阻まれ馴染めないままです。
こんな風に変わろうとすればするほど全てが裏目に出てしまう自分の情けなさに苛立ちがあったのでしょう。
そうした過去の失敗で味わった痛みと変われない自分への苛立ちもまたここで一緒に燃やしているのです。
家族団欒
そして何より大事なのはケイラがこのたき火を父マークと共に行ったということです。
単に燃やすだけなら一人でも良かったのを父と二人で行ったのはたき火自体に「家族団欒」の意味があります。
デジタルが当たり前になった昨今、こうして親子がじっくり向き合って会話する機会も少なくなりました。
ここでたき火はケイラとマークの二人にとって最大の“アナログ”の象徴でもあるのです。
たき火となると人は否が応でもその火に魅せられ、自分と向き合う時間を持たざるを得ません。
つまりこのたき火はデイ親子にとって最初で最後の自分と向き合う特別な時間だったのでしょう。
故きを温めて新しきを知る、このたき火にはそのような意味もまた込められているのではないでしょうか。
ケイラとマークの苦悩の本質
これまで述べてきたケイラとマークの苦悩からは様々な現代社会の本質が詰まっています。
その背景にある奥深い様々な問題や本作ならではの表現について考察していきましょう。
大人になっても苦悩は続く
「エイス・グレード」の新しい特徴は子供だけでなく大人の苦悩も描かれていることです。
若者の苦悩を描くとき、どうしても大人は正論を押しつける役割に終始することもままあります。
しかし、本作の「大人」の象徴であるマークはスマホばかり見る娘の姿に苦悩を抱いていました。
そう、忘れがちなのは大人には大人の苦悩があり、子供には見えないという点です。
これは同時にデジタル社会の今大人が誰も絶対的な正しさを持っていない証でしょう。