近藤は愛・夢・仕事すべてにおいて宙ぶらりんのままでした。しかしすべてが不明瞭だからこそ、すべてに望みがある終わり方だともいえます。
なぜ、映画ではこのようなハッピーエンドになったのか。
やはりここにも、多幸感のあるラブコメ映画にしたいという製作者の意志があったのではないでしょうか。
雨とツバメから読み解く映画版ラストの良さ
『恋は雨上がりのように』の原作・アニメ・映画で重要な要素となるのが雨とツバメです。
この2つに着目すると映画版ラストの良さが浮かび上がってきます。
「雨」にみる描写の違い
『恋は雨上がりのように』というタイトルにもみられる通り、「雨」が物語の中で重要な役割を担っています。
原作とアニメ版では文学作品のように雨がメタファーとして生かされています。雨によってキャラの心情や場面の雰囲気が表現されていました。
対して映画版では雨は映画全体のムード作りの役割を担っていたのではないでしょうか。雨のシーンは数多くありました。
が、雨の降る景色自体へのフォーカスではなく飽くまでドラマの背景として位置づけられていたような印象を与えます。
この雨の違いはラストの余韻に変化をもたらしたはずです。映画では雨がドラマやキャラの内部にまで浸透していなかったので幸福感が増します。
ラストに雨が上がったことであきらと近藤・2人の未来が祝福されたように感じた人も多いことでしょう。
「ツバメ」にみる描写の違い
原作とアニメでは雨と共にツバメがメタファーとして生かされていました。最後に巣立ったツバメがまた戻ってくることでテーマが暗示されます。
それはさまざまな解釈を促します。ツバメはあきらと近藤が夢へと羽ばたいたあとにまた傷ついてお互いの元に帰ってくることを意味するのか。
あるいは戻ったツバメは誰か別の人であり、あきらと近藤の雨宿りの恋は決して特殊なものではないと訴えたかったのか。
ラストのツバメによって原作とアニメはこのように文学的な余韻を残します。対して映画版ではツバメはまった出てきません。
映画ではメールの約束でさりげなく復縁が描かれました。賛否あるでしょうがラブコメとしてこの単純描写の方がよかったのではないでしょうか。
3つのラストになったメディアミックスならではの理由
前述したとおり原作とアニメ版の終了は2018年3月。対して映画は公開日が2018年の5月ながらクランクアップは2017年末でした。
これは驚きの事実でしょう。なぜなら映画が原作よりも早く物語を終わらせていたことになるからです。
しかも原作者・眉月じゅん氏はアニメ版の渡辺歩監督・映画版の永井聡監督のどちらにもラストがどうなるのかを教えていませんでした。
これはまさに本末転倒であり前代未聞ともいえるでしょう。これについて眉月氏はこう語っています。
「自分で最終回を描く前に人に言うと、描くモチベーションが下がってしまうと思ったからです。
あとは、アニメの監督(渡辺歩監督)も永井監督も私の考えからは外れた終わり方にはしないだろうという信頼があったからです。」
引用:https://xn--nckg3oobb0816d2bri62bhg0c.com/interview58-koiame/2/
つまり『恋は雨上がりのように』が三者三様のラストになったのは、原作者・眉月氏から両監督への絶大な信頼があったからだということです。
しかし普通そうであれば、もっと違った形になってもおかしくありません。原作・アニメ・映画では描写方法は違えど根本的には同じ結末なのです。
なのでにわかには信じがたい話です。おそらくこの3人は何度かミーティングをして基本的な方向性だけはすり合わせていたのでしょう。
いずれにせよこれはメディアミックス展開ならではの画期的な競合創作だといえます。今後新たな主流になるのかもしれません。
原作・アニメ版・映画版すべてに独自の魅力があふれています。1つでもファンになった方は他の2つも合わせてご覧になってはどうでしょうか。