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この映画体験に衝撃を受けない人が、いったいどれほどいるのでしょうか。
園子温監督の『愛のむきだし』。
全編にわたりエロス、暴力、怒り、狂気、そして愛に満ちた超長編映画。上映時間は約4時間にも及びます。
過激な描写の多い本作ですが、ベースとなっているのは実話だというから驚き。
作品は高い評価を受け、ベルリン国際映画祭ではカリガリ賞と国際批評家連盟賞をW受賞。
また、メインキャストのAAA西島隆弘と満島ひかりも、それぞれ各所で新人賞を受賞しました。
しかし同時に、その長さと凶暴性、そして幾つかの不可解な点から、賛否両論を巻き起こした作品でもあります。
特に解釈が難しいのが、映画ラスト。ユウとヨーコはなぜ手を握ったのでしょうか?
また、安藤サクラの怪演が光ったトリックスターともいうべき存在、コイケの自殺にも謎が残ります。
『愛のむきだし』、ラストを考察していきましょう。
なぜユウとヨーコは手を握ったのか
映画は、抱き合うでもなく、キスをするでもなく、手をつなぎ合うユウとヨーコのカットで締め括られます。
全編を通してもがき、苦しみ、叫んでいた2人。
手を取り合う彼らの晴れやかな笑顔は、ハッピーエンドと呼んで差支えないでしょう。
2人が負っていた傷、そしてそれがどう癒され、この最後のカットに辿り着いたのかを考えます。
愛の犠牲者たち
主人公、本田悠(ユウ)と彼が恋をする運命の少女尾沢洋子(ヨーコ)は、どちらもいわゆる正常とよばれる若者ではありません。
ユウは盗撮魔、一方のヨーコは男性を嫌悪し誰かれ構わず暴力でねじ伏せてきました。
その行動は彼らの心の歪みによるもの。そしてその原因として描かれているのが、彼らの家庭環境です。
ユウと父親
ユウが育ったのは敬虔なクリスチャン家庭。父親は神父です。
この父親テツは、女性関係によってメンタルと行動が大きく左右されているキャラクターでもあります。
それに振り回されているのがユウなのです。
ユウは盗撮した自分を責めるテツを親としての愛情のあらわれだと考えています。しかし、本当にそうでしょうか。
テツはキリスト教の神父として、自分の息子がした行為を恥じ、怒っています。
それはカオリに出会って色欲に溺れた自分への怒りでもあります。親としてユウの将来を案じているわけではありません。
一見心優しい人物に見えるテツですが、彼が息子を心から気に掛ける様子は描写されていないのです。
テツの関心が向かっているのは、神父である自分と抑えきれない性欲とのせめぎ合い。
ユウは親しい人の間に愛ある交流を求めています。なぜなら、彼は母に愛された温かい記憶を持っているから。
しかし、それはテツの元では叶わぬ望みなのでした。
ヨーコと父親
対してヨーコの場合は、ユウほどに家族への期待を抱いていません。
彼女の受けていた虐待はウよりもずっと顕在的で、回想の中に家族の幸せな思い出は皆無です。
解体のバイトで空き家をめちゃくちゃに壊すとき、彼女の胸にはもしかしたら安堵に似たものがあるのかもしれません。
結局この世には幸せな家族など存在しないのだと。自分だけが不幸なわけではないのだと。
ユウは愛情に希望を抱いていますが、ヨーコは違います。
彼女は愛をその身に受けたことのないキャラクター。愛に希望を抱きようがないのです。
性への否定観
ユウとヨーコは、性に対する否定的な意識もそれぞれ違った形で持っています。
ユウは、父親が愛人にはまりこんだせいで平穏な日々を奪われた、父の性欲の犠牲者です。