ユウとヨーコの初歩的なスキンシップは、2人がこれから共に一歩ずつ愛を育んでいくことを示しています。
コイケの死
登場するシーンすべてで異様な存在感を放つコイケ。
この作品が持つ不可解さ、難解さも彼女のミステリアスな行動によるところがあるでしょう。
特に最後、自らの腹に刀を突き刺した点。コイケの死の真相とはなんだったのでしょうか。
コイケも同じ
コイケが育った環境はユウ、ヨーコにそれぞれ似ています。
彼女の父親はクリスチャンであり、かつ、性的虐待者でした。
コイケの中にはユウと同じ性への罪の意識、ヨーコと同じ性への嫌悪感の両方を抱いています。
ある意味、ユウとヨーコの間にコイケはおり、3者は似通った存在なのです。
コイケが死を選んだ理由
コイケはユウを、罪の意識を共有する自分の仲間であると考えていました。
ヨーコの奪還に失敗して正気を失ったユウに、彼女は同化の感情を抱いています。
あの自害はおそらく、彼女にとっては心中の意味があったのでしょう。
壊れてしまったユウと共に滅びるため、彼女は自分の命を絶ったのです。
谷間に飼う鳥の意味
コイケが常に連れているセキセイインコ。
彼女の回想シーンにも登場しますが、父親に踏み殺されてしまっているので、このインコは別に飼いなおしたのでしょう。
また、コイケがユウに小鳥さん、と呼びかけているシーンがあります。
鳥は、コイケの中の愛情の象徴ではないかと考えられます。
コイケはユウに強い執着心を抱いていますが、それを自分の愛であるとは認めません。
なぜなら彼女の中で恋愛は性愛につながり、それは大いなる罪であるためです。
コイケが死んだあと、インコが彼女の胸の谷間から出てきます。
胸は想いを秘める場所。
彼女は自分の死をもってユウへの愛を解放したのでした。
コイケとユウ、ヨーコの違い
死を選んだコイケと、生きのびて手を取り合ったユウとヨーコ。
両者を隔てたもの。それは、愛を肯定してくれるものの存在かもしれません。
ユウには母親が、そしてヨーコにはむきだしの愛で人生を謳歌するカオリがいました。
対してコイケには、愛を肯定するロールモデルが存在しません。
もし彼女にもそのような存在がいたとしたら、結末はまた違うものになっていたのではないでしょうか。
最も大いなるものは、愛
どうしようもない苦しみ、悲しみ、そして怒り。
その心の闇には罪やまやかしなど、ほの暗い影が忍び寄ります。
しかしそのすべてに打ち勝つものがある。それが、この作品における愛です。
ところが性への強い罪の意識は、しばしば愛を秘匿してしまおうとします。
それはきっと、この世に他者を傷つけ奪う性が存在するためではないでしょうか。映画に登場する父親たちのように。
しかし、愛はそれすらも凌駕できるのです。
むきだしの愛が持つ底知れないパワーは、人の心をどんな深い闇からも救い出すことができると、映画は訴えかけています。