逆に洗練された都会っ子として育ってきた修平は人格こそ陶冶されていますが心に柔軟性がありません。
そしてそれがコンクールなどで見せる二人のピアノの弾き方の差にもなっているのです。
モーツァルトのお化け
修平や阿字野の出会いによってコンクールに参加することになった海は猛練習に励みます。
しかし何故か練習をしている最中に彼はモーツァルトのお化けを見るようになるのです。
しかもそのお化けは予選の本番中にまで出てきて彼を苦しめ続けます。
ここでは海にだけお化けが見える理由を考察していきましょう。
阿字野の模倣でしかない
最初のきっかけは阿字野に自分の演奏の模倣でしかなく、海らしさがないと否定されたことでした。
楽譜通りに弾かなければならないのに、その上で模倣をするなという矛盾を突きつけられるのです。
まさに個性なんて求めていないのに個性を発揮しろといっている現代社会の矛盾ではないでしょうか。
彼は要するにここで自分らしさと自分らしくなさの間で葛藤することになります。
そうした心の迷いが生じてしまった瞬間に彼の中で闇が出来たのかも知れません。
修平や誉子と同じだから
楽譜通りに自分らしさを押し殺して技術に正確な演奏をする、それは要するに修平や誉子と同じなのです。
この前に修平と誉子の演奏がありますが、二人は元々英才教育を受けたからそれが演奏の個性になります。
しかし海の演奏は誰かに習ったものではなく彼自身の中から生まれてきた天性のセンスによるものです。
それを押し殺して修平や誉子と同一の演奏をしたところでそれは結局他者と自分の同一化に過ぎません。
つまり、モーツァルトのお化けとは同時に海にとっては修平や誉子のメタファーでもあるわけです。
権威という幻想
そのモーツァルトのお化けは海が本来の自分らしさを出した演奏を取り戻した時に消えていきました。
それは同時にモーツァルトのお化け自体が権威の幻想であることを意味していたのではないでしょうか。
確かに音楽をやっていく上で先人の遺した技術や歴史はそれ自体とても立派なものです。
しかし、それに縋りすぎてしまうと今度は逆の自分を押し殺すことにも繋がりかねません。
海の音楽は先人の誰にも似ていない自身の内面から出たから面白いのです。
芸術とは表現者の個性が先にあって面白さが追従するのであり、権威の為に個性が押し殺されてはいけません。
海が予選突破できなかった原因
そんなモーツァルトのお化けを振り切って独自の演奏で海は観客からの拍手喝采やアンコールを掻っ攫いました。
秀才タイプの修平が負けを認めてしまう程であり、彼のようになりたいと憧れすら持つようになります。
ですが、それでも予選突破はなりませんでした。一体何がいけなかったのでしょうか?
楽譜無視の演奏だったから
一番の理由は海の演奏が楽譜を完全に無視した独自の演奏だったからです。
独創的といえば聞こえはいいですが、海の演奏は審査員からすれば大会の規定を無視した違反行為であります。
事と次第によっては海は音楽協会をはじめ様々な公共団体から訴えられてもおかしくありません。
なので審査員達が悪いのではなく海の演奏が大会の規定に沿うものではなかっただけのことです。
日本の枠に収まる音楽ではない
しかし悪くいえば規定から外れている海の演奏を阿字野はコンクールの枠に収まらないと褒めました。