ジョーは決してそんな気持ちではなくただ単にセックス依存以外の生き方も知りたかったのです。
セックスは確かに人間の根源的欲求の一つですが、あくまでも一つの選択肢に過ぎずそれが全てではありません。
性欲以外の方法、男女の情愛や肉体関係を持たずとも生きていくことが可能なはずだといいたいのでしょう。
これはセックスの酸いも甘いも噛み分け、恋愛も含んだ性欲の在り方を極めたジョーだからいえることです。
本作はジョーを通してそうした「性」に支配されないで生きていく社会の可能性を模索していると窺えます。
自分を悪い人間と思った理由
ルーは話の中で何度も回想の中で自分を悪い人間だとセリグマンに語っていました。
確かに過去で語られる彼女の行いは決していいものだとは言えません。
ここでは彼女の行動を振り返りながら、その理由を掘り下げていきましょう。
銃殺しかけた
まず一つ目の理由として挙げられるのはジョーが銃殺しかけたことからです。
彼女はPとジェロームに裏切られた挙句顔に尿をかけられるという凄まじい屈辱を味わいました。
安全装置が外れていなかったからとはいえ、ここまで行くと完全に執着や狂気のみとなるのです。
そこから先一線を超えてしまえばルーはもう人として完全に引き返すことが出来ません。
そのギリギリの狂気の世界を見てきたことが彼女をしてそう思わせたのでしょう。
家族の人生を引き裂いた
前半のシーンではルーがH夫に対して妻と別れて欲しいと頼み、実際に別れさせるに至りました。
挙句の果てにその出来事すら彼女の人生に何ら影響を与えていないとまでいい切ったのです。
下手すれば慰謝料請求などをされてもおかしくない程の不義をさらりとやらかしています。
ですがルーの場合あくまでも自身の性欲に正直に動いた結果でありそこには理由がありません。
周りからしてみれば無自覚に人の人生を狂わせるとんでもない疫病神ではないでしょうか。
ルーと関わった人は彼女の色情狂に何かしらの形で飲み込まれ不幸になってしまうのですから。
二重の”不感症”
このような傍から見ると破滅的な人生を送ってきたルーは二重の意味で”不感症”になってしまいました。
一つには文字通り色んな男と肉体関係を持っても何も快楽を感じなくなってしまっていることです。
そしてもう一つがこれだけ多くの人を不幸にしておいて何の後ろめたさもない自分自身という精神的不感症。
もうここまで来て何も感じなくなって人間味が希薄になっていく自分が怖かったのではないでしょうか。
痛みも悲しさも何もかもを感じられないこと程人間にとって辛いことはありません。
そうした不感症がもたらした欠落こそルーが一番感じていた罪悪感であったのです。
ラストシーン
さて、そのような性に関する話題を深くまで話し初めて出来たジョーの友人セリグマン。
しかし最後のどんでん返しで何とセリグマンは彼女に襲いかかってしまうのです。
それまで善人の象徴であった彼がどうしてこうなったのでしょうか?
上記を踏まえてラストシーンの謎を考察していきましょう。
潜在意識の解放=理性の消滅
「解放」という言葉を用いるならば、このラストシーンの第一義はセリグマンの潜在意識の解放を意味します。
決していい意味ではなく、これまで幾分善良な知識人として描かれてきた彼の理性が消滅したということです。