にもかかわらず、彼女の顔は全然後ろめたさや罪悪感が微塵もない笑顔です。
果たして捕まった定の心境はいかばかりのものだったのでしょうか?
吉蔵を奪った満足感
まず一番に挙げられるのは吉蔵を性器ごと奪うことが出来たことへの満足感でした。
定は逮捕されるされないといった人目や世間体を気にする様子は全くありません。
寧ろ女郎上がりと馬鹿にされてきたことからそういうものが如何に下らないかも知っていたのでしょう。
だからこそ逮捕されるときも決して逃げも隠れもせずに堂々と名乗り出たのです。
彼女の中では少なくとも罪の意識自体はありません。
癇癪の再発
やや作品から離れると、定は服役中吉蔵の一周忌辺りを境に癇癪を再発させ奇行に走ったと聞きます。
刑務所の生活が厳しかったことと石田への所有欲、様々な思いが綯い交ぜになって発露したのでしょう。
このことから逮捕後必ずしも満足感だけで生活していたわけではないということが分かります。
行き過ぎた激情故の行動、その反動が後々に自身に跳ね返ってきたのではないでしょうか。
愛ではなく執着
こうして分析してみると、阿部定事件の本質は「愛」ではなく「執着」だったことが見えてきます。
定は吉蔵個人や彼の性器は愛していても、彼を取り巻く人達や家族のことまでは愛せませんでした。
即ち定の世界が吉蔵との関わりで塗りつぶされており、他のことが考えられなくなっているのです。
性器を切断した瞬間に微笑んだのも、逮捕されても笑顔だったのも全てはそこではないでしょうか。
それが行き着くところまで行き着いたのが阿部定という女の人間性であったのです。
だからこそ吉蔵が生きている時の定は苦しそうで、でも殺した時には解放されていました。
決して特殊な事件でも何でもなく、愛と執着を錯覚したまま暴走した訳あり女の痴情の縺れなのです。
心の中の阿部定
本作はその起こった時代や事件の内容が表現も含めて過激故に奇を衒った問題作と見られがちです。
しかし、古い作品ながら現代の私たちにも通じる普遍性のあるメッセージが隠されています。
それは誰の心の中にも阿部定という執着に支配される人間性が内在しているものだということです。
昨今歪んだ個人主義が横行する社会では奪うことしか考えない彼女のような人間が増えています。
だからこそ我々は今の時代個人の欲・執着と戦い負けないように心がける必要があるのではないでしょうか。
そのための教材として、過激なアプローチながら愛と執着の違いを生々しく突きつけてくる隠れた傑作です。