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『野火2015』は実際にフィリピン戦線を経験した大岡昇平による小説を映画化したものです。
題名の後に2015が付く本作は塚本晋也監督により製作されました。
塚本監督は脚本・編集・撮影・製作を兼ね自主製作映画として公開されています。
『野火2015』は構想に20年という歳月をかけ自主映画製作に踏み切った塚本晋也渾身の作品です。
本作のラストで描かれた食事シーンが示すものや永松が田村を殺さなかった理由を徹底考察していきましょう。
そして田村は野火の中に何を見たのかを合わせて深掘りしていきます。
なぜ永松は田村を殺さなかったのか
安田に殺されて喰われることを怖れ、離れて夜を過ごす永松でしたがなぜか田村は自分の隠れ家に入れました。
田村に向かって食うか食われるかだと凄みつつも田村を殺さなかった永松の真意を探ってみましょう。
永松の中に残る人間性
泣くという行為は『悲しい』とか『苦しい』ことを連想させます。
あの戦場においてそれらの感情を維持し続けていることから永松は本来感情の豊かな人間だったのでしょう。
あの極限状態で人間性を保つことは不可能というよりすでに無意味です。
それでも永松は最後の一滴だけでも人間性を残していたかったのかもしれません。
しかし狂わなくては生きていけない状況で必死に狂おうとしています。
そんな彼が失いたくなかった最後の人間性の象徴が『狂うことを選ばなかった田村』なのです。
そんな彼にとって田村は一縷の希望だったのかもしれません。
そして安田の恐ろしさは狂わずに『その状況』を受け入れていたことです。
人肉を猿の肉と言い、干物加工までして保存する指示を出す安田とは何者なのでしょうか。
安田という男
安田は息子の話を良くします。しかもかなり自虐的に語っているのです。
彼はレイテの美しい空を見上げて『航空隊に志願した息子が探しに来ているかもしれない』と言うシーンがありました。
捨てた息子が自分を探しに来るという妄想を抱く安田と、永松の心の弱さを利用して人間狩りをさせる安田。
この安田の二面性こそ人間がもつ究極のエゴイズムの体現です。
そこに留まった田村の心境
初めて『猿の肉』を口にして死を希求した田村は、眠ったら殺されて喰われるという状況下で眠りに落ちます。
腹を空かせたハイエナの前に瀕死の体を投げ出すような一夜を過ごした田村は、翌朝永松に問いかけました。
しかし永松は応えません。
食うか食われるか
『猿』を狩る安田を見た田村は驚きと共に憐みの視線を投げかけます。
その視線を受け最大の屈辱を味わう永松は『食うか食われるかだ』と田村に凄んで見せるのです。
あの凄みは田村に見捨てないでくれと言っているかのように感じます。
レイテ島の中で自分の命を狙っていないのは田村だけだと永松は本能で感じ取っていました。
永松にとって田村は安田には感じられない人間の匂いがしたのかもしれません。