出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B0022F6LO0/?tag=cinema-notes-22
映画「アンドリューNDR114」は1999年に公開されたあるアンドロイドを巡るSF作品です。
アイザック・アシモフの「バイセンテニアル・マン」を原作としてクリス・コロンバスが映画化しました。
キャストはロビン・ウィリアムズやエンベス・デイヴィッツを中心に実力派で構成されています。
人間に憧れを持つロボットをテーマに深いドラマを描き、以下の賞を受賞しました。
2000年度ジョージー賞最優秀特殊メイク賞
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/アンドリューNDR114
本稿では議会が訴えを退けた意味をあらすじを追いながらじっくり丁寧に掘り下げていきます。
また、ガラテアが生命維持装置を切った理由なども併せてあらすじに沿って見ていきましょう。
生と死
本作はSF映画としては特別な設定や奇抜な展開などもなく、一見地味な映画に思われます。
しかし、核にある部分を抽出していくと中心に描かれているのは“生と死”という普遍的なテーマです。
ロボットには人間と違って”死”という概念がなく、動作不良などによる故障がなければ永久に動けます。
しかし、だからこそ物語の中で人間の情緒を理解・会得していくアンドリューの葛藤が映えるのです。
部品交換さえすれば永久機関として動き続ける彼らを通して“永遠の命”が後生大事なものかを問うています。
根っこにある部分は非常にシンプル、しかしそれ故に奥が深く再現の難しいテーマでもあるのです。
これをしっかり問い直すことでロボットと人間の関係に新たな物語を生み出すことに成功しました。
議会が訴えを退けた意味
本作一番の見所はアンドリューが物語の進行と共に人間の機能と感情を手に入れていく過程です。
そこで後半では人間として認めて貰いたいということから議会へ申請しますが退けられます。
果たして何故議会は人間らしくなっていくアンドリューを退けたのでしょうか?
永遠の命
一番の理由は上述した通り、ロボットは人間と違って永遠の命があるからです。
これは同時に人間と機械の大きな区別にもなっていてアンドリューは機械でしかありません。
どんなに人間らしくなって人間に近づいていったところで本当の意味で人間ではないのです。
機械部品の交換やバッテリーなどメンテナンスして経年劣化を防げば永きにわたって使えます。
実際に200年も動くことが出来るのですから致死率0%といっても過言ではありません。
人工臓器とロボット
二つ目の理由はアンドリューが訴えたように、人工臓器で生き長らえる人間がありました。
ポーシャやバーンズなど医療技術の発展によって人間も延命が可能となったのです。
アンドリューは一緒に人間と学んでいく内に人間とロボットの区別が曖昧になっていることに気付いたのでしょう。
だからこそ人間の機能を身につけて貰った自分は人間と同義だと思ったとしてもおかしくありません。
議会がこの主張さえも切り捨てたのは人工臓器によって人間がロボット化しつつあると認めることになるからです。
人間至上主義
また、この訴えの前段階としてアンドリューがポーシャと愛し合いながらも結婚を認められなかった件があります。
単に一緒に居るというのであれば結婚を認めても問題はないのに何故それをしなかったのか?
それは人類法廷自体がどこかで人類こそが至上の存在であるという人間至上主義だったからでしょう。