エンディング部分では名前を呼びながら出欠確認をしているシーンがありましたが、その教室にはなずなと典道の姿はありませんでした。
出欠確認は五十音順でされていることを考慮すると、島田典道を呼びながらも、及川なずなを呼ばないのは、及川なずなは既に転校していてその状況説明も済んでいることを示唆しています。
つまり、この場面は時間軸で考えれば夏休み明けであることがわかります。
では、なぜ典道はいないのでしょうか。
このシーンについては映画では触れられていないため想像するしかありません。
その描かれなかった部分を想像する手助けをしてくれるのが、伏線です。
「もしも玉」が砕けて①の場面(夏休み中の登校日に海岸近くでなずなを見かけたとき)から現実世界をやり直しているのであれば、自分のなずなへの思いの深さに気づいた典道は友達と一緒に登校していたのを途中でやめて、なずなに何らかのアクションを起こしたと考えられます。
そして、「もしもの世界」でなずなに伝えた「俺はもしも…もしもお前がいなくなるとしても今日だけは一緒にいたい」ということをその時点で伝えたのではないでしょうか。
昔ながらの割物と呼ばれる打ち上げ花火は下から見ても、横から見ても円形に見えます。
それと同様に「もしも玉」を使ってどのような選択をしたとしても、なずなを母親の身勝手な選択から救うことはできず、主人公たちの運命は同じ道(夏休み中の別れ)を通過してしまうことでしょう。
しかし、8月1日を「もしも玉」で何度も疑似体験した典道は、望む未来を自分の手に掴む一言を伝えることで、2人の未来に一筋の光を灯したのではないでしょうか。
砕け散った「もしも玉」が伝えたかったこと
「もしも玉」が砕けて欠片に映る世界は、登場人物たちが8月1日に選択し得た世界でした。
このことから考察すると、少年たちに「日々多くの可能性に満ちた世界に生きている」ということを伝えたかったのではないでしょうか。
砕け散った「もしも玉」の欠片
唯一欠片を掴んだのは典道であり、欠片に映りこんだ「もしもの世界」を一部だけでも実現させたのも典道だけ。
ということから考えると、砕け散った「もしも玉」の欠片を見ていたというのは「もしもの世界」を想像する人であり、一方で掴み取るというのは「もしもの世界」を現実にするために行動する人であるという事の暗喩ではないでしょうか。
リメイクを重ねて改めて伝えたかったこと
原作の岩井俊二氏は宮城県仙台市の出身で、自身が監督をした「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」を東日本大震災の復興を願って無料で動画配信をしていた時期があります。
さらに映画の舞台になったのは、東日本大震災で被災した千葉県旭市や銚子市であること。
そして今作の制作時期を考えると、「抗えない強い力の存在(子供にとっての親、災害など)」と「人生には日々多くの選択があり、後悔しないように一瞬一瞬を精いっぱい生きることの大切さ」を鑑賞者に伝えたかったのだろうと感じます。