その理由を語る為の物語だ、と捉えることも出来るのではないでしょうか。
同胞でもあるユダヤ人達からローマへ引き渡されたにもかかわらず、慈悲の心を持ってイエスは歩みを進めています。
ベン・ハーやメッサラが抱いたような憎しみに侵されることはないのです。
特別な存在として登場した彼こそが、真の主人公なのかもしれません。
イエスが間接的に描かれる理由
実に巧妙な手腕でつくられた本作はベン・ハーの生涯を描きつつ、彼の人生に神の子イエスの誕生から死までを上手く交差させています。
しかし、劇中でイエスは間接的に描かれ不思議な存在感を感じさせていました。
イエスの顔がアップになるシーンがない
劇中ではイエスの存在を匂わせながらも顔をアップして映し出すシーンはありません。
ガレー船の中でベン・ハーに水を与えた時も、髪型と背格好のみがわかるように登場しています。
イエスはあくまで物語に間接的に関わる立場を徹底しているのですが、この演出には大きな意味が隠されています。
観る者の想像力に任せる
イエスが間接的に描かれたことは、観ている者に対して想像の余白を与えることになります。
キリスト教の象徴であるイエスが、間接的に描かれることで彼がどんな人物だったのか個々に想像をめぐらすことになるでしょう。
また、映画を観た後に不思議とイエスに対する印象が強く残ることになります。
監督ウィリアム・ワイラーの繊細かつ計算された演出方法なのです。
神格化につながる
人は、イエス・キリストについては多かれ少なかれ既存の知識を持っているものです。
彼について細かく描写をせずとも、観る者の知識と結びつきその存在感を増していくことでしょう。
間接的に描くということは、通常の登場人物と違う存在だと強調することにもなり劇中でイエスを神格化させる方法でもあるのです。
副題は「キリスト物語」
「Ben Hur( A Tale of the Christ)」は本作の元になった小説ですが、副題にはキリストの物語と記されています。
ベン・ハーと同じ時代を並走したイエスが奴隷となった彼と交差するシーンは、「救い」を表現しているのです。
彼はイエスに出会うことで、イエスに生かされたといえるでしょう。
ベン・ハーの側にはいつもイエスの存在があり、必要な時に助けを差し出しています。