スーザンは金持ちでありながら自分から何かビジネスや策を”仕掛ける側”ではありませんでした。
一方で作家・小説家として大成したエドワードは間違いなく”仕掛ける側”の人間となったのです。
世の中は頭の良い人が勝てるように出来ていて、殆どはその頭の良い人達に都合良く利用されて終わります。
その為の見極めを小説を通じでエドワードはスーザンに行おうとしていたのではないでしょうか。
以上を総合すると、「復讐」ではなく「試練」の意味合いでエドワードはスーザンに小説を送ったのでしょう。
ラストにレストランに来なかった理由
小説を全て読み終えたスーザンはエドワードに感想と「火曜日に会いたい」という趣旨のメールを送りました。
しかし、肝心要のエドワードは何故かレストランでの待ち合わせには最後まで現われません。
何故彼は現われなかったのか、その理由を上記の考察を踏まえながら見ていきましょう。
小説の意図を正しく理解出来ていなかった
まず一つ目にスーザンが小説の意図を正しく理解出来ていなかったからです。
エドワードはこの作品をスーザンに振られた元夫の悲しき私小説の延長だと思ってしまいました。
だからトニー=エドワード、レイ=自分という安直な図式で作品の意図を読み違えたのです。
仮にも芸術に携わっている筈の元妻が芸術表現の一つである小説すらもまともに読み解けませんでした。
そのことにエドワードは失望し、もう会うに値しない人間だと判断したのではないでしょうか。
罪悪感の無さ
二つ目にスーザンが安易にメールで「火曜日に会いたい」と送ってきたことに罪悪感の無さを感じたのでしょう。
スーザンは何の罪悪感や後ろめたさもなく今の夫へに無断で再会の約束を取り付けてしまいました。
そのことがエドワードの心をまたもや深く傷つけることになったのではないでしょうか。
20年間の新しい夫婦生活で成長したのかと思えば、変わらないどころかより悪化してしまっているのです。
これではエドワードに限らずどんな男もスーザンに再会したいなどとは思わないでしょう。
魂のステージが違い過ぎる
以上二つのことから今のエドワードとスーザンでは魂のステージが違い過ぎることが挙げられます。
エドワードはスーザンと別れたことで自分自身を相対化・客観化し、それを小説の作風の変化へと昇華出来ました。
しかしスーザンはハットンと夫婦になっても浮気され、いつまでも子供じみた主観の領域から抜けきれません。
そしてそれが上述した”仕掛ける側”と”仕掛けられる側”の違いとして顕著に出る形となったのでしょう。
20年もの月日が二人の魂のステージを遠ざける結果となり、もう一緒には居られないと悟ったと推測されます。
小説でも「失ったら二度と戻らない」という言葉にあるように、彼らの失われた月日は二度と戻りません。
小説に散りばめられた比喩
さて、この項目ではスーザンとエドワードを決定的に違える物となった小説に触れていきましょう。
上記したように小説「夜の獣たち」にはトニー=スーザンの他にも様々な比喩が散りばめられています。
特に重要な部分を中心に小説の比喩表現を掘り下げていきましょう。
殺された妻子
まず小説の冒頭でトニーが失った妻子ですが、いうまでもなくこれは流産した子どもと元夫エドワードでしょう。